小学生の頃から、日本の朝ごはんイコール納豆。それは少年が売りに来る思い出の味。尼寺に暮らす今も、朝は納豆だ。
【西井香春さんの定番・朝めし自慢(日本の場合)】
【西井香春さんの定番・朝めし自慢(パリの“おめざ”)】
東京・小金井市に『臨済宗 泰元山 三光院』という尼寺がある。ここに伝わるのが、竹之御所流精進料理である。料理長を務める西井香春さんが語る。
「竹之御所流精進料理とは、京都・嵯峨野にある竹之御所と呼ばれる尼門跡寺院・曇華院に、室町時代から伝わる料理です」
それを武蔵野の地に根付かせたのが、曇華院から招かれた先代住職の祖栄禅尼。以来80余年、現住職の香栄禅尼(89歳)へと守り継がれてきたが、西井さんはその後継者に認められ、住職から“香春”の名を賜ったという。54歳の時である。だが、一貫して精進料理に携わってきたわけではない。
横浜に育ったが、14歳で母を亡くし、16歳で従妹(女優の岸惠子さん)を頼って渡仏。「ル・コルドン・ブルー」などでフランス料理を学び、40歳で帰国した。以降は本名・西井郁(あや)の名で、東京・六本木でフランス料理の教室を主宰し、フランス料理研究家として雑誌やテレビでも活躍。けれどその頃、ある思いが芽生えていた。
「10代でフランスに渡った私は、日本のことは何も知らない。40代になって、次は日本文化としての料理を学びたいと思いました」
そこでたどり着いたのが、三光院である。内弟子として香栄禅尼より一対一の指導を受け、四半世紀を経た今、竹之御所流精進料理の3代目料理長となったのである。
葱は禁忌の精進料理
精進料理を作ることを生業とする人の朝食は、やはり精進か──。
「私にとって、朝食イコール納豆。“ナットナット、ナットー”の売り声を今も覚えているわ」
それは昭和20年代、小学生の頃の朝の記憶。毎朝、少年が納豆に葱や芥子、海苔などの薬味一式を入れた箱を首からぶら下げて売りにきた。その少年に会いたい一心で、毎朝、納豆を買ったという。
「けれど、精進料理では匂いの強い葱は禁忌だから、今、納豆の薬味は大葉や茗荷ね」
一方、10代から30代を過ごしたフランス・パリでは、ベッドで摂る“おめざ”が朝食代わりだった。
「夕食は舞台や映画を観た後に摂るから真夜中近く。だから朝はいつも軽く、おめざ程度でした」
納豆もおめざも、思い出の味だ。
“作務禅”という言葉通り、料理を作るのも修行のひとつ
香栄禅尼は傘寿を迎えた頃から体の自由がききづらくなり、三光院の厨房は西井さんに委ねられた。
「竹之御所流精進料理は宮中の雅な料理に、禅院らしい創意工夫が加えられた尼寺料理です。その始まりが仏門に帰依した姫君のための料理だけに、どことなく愛らしい。加えて、素材のもつ味、香り、食感、色合いを生かしきる。これが三光院の精進料理です」
味の基本は日本料理の五味──甘(かん)・酸(さん)・辛(しん)・苦(く)・鹹(かん)(塩辛いこと)に、淡味を加えた六味である。この淡味とは、食べ終わった後に清々しさが感じられるということで、竹之御所流精進料理の神髄だ。その基本を受け継ぎながら、“香栄とう富”などの新たなメニューも開発されている。
禅宗には“ 作務禅”という修行がある。料理を作ることも、すなわち修行だというのだ。これからも西井さんの修行の日々は続く。
三光院本堂奥の十月堂で、竹之御所流精進料理が味わえる。昼のみで完全電話予約制(電話;042・381・1116)。一汁五菜、一汁六菜、一汁七菜の3コースから選ぶことができる。
取材・文/出井邦子 撮影/馬場 隆
※この記事は『サライ』本誌2020年10月号より転載しました。