「半島をゆく」知多半島編2日目は、愛知県美浜町の野間大坊からスタートした。門前の「やまに旅館」に宿泊した一行は、まず郷土史家で観光ボランティアの百合草信夫先生(写真1)から地元の歴史を伺った。全国に観光ボランティアは数多いが、百合草先生の豊富な知識と弁舌の巧みさに一行は聞き惚れた。「半島をゆく」はこうした郷土を愛し、郷土の歴史を語り伝える方々にも支えられている。
一行は、百合草先生の案内で旅館の目の前にある野間大坊を訪ねた。
野間大坊は正式には大御堂寺といい、天武天皇の時代に創建され、平安時代末期には白河天皇により勅願寺となった名刹だ。
平治の乱で敗れた源義朝が知多半島に逃れてきた経緯については、『サライ』本誌8月号「半島をゆく」に詳しいが、敵方の追尾探索が厳しい陸路ではなく、海路に捲土重来を期した義朝の心情、そして当時の交通事情は、現地を実際に訪れて初めて、実感できる。
野間大坊を訪ねたら、ぜひ体験いただきたいのが、住職による「義朝公最期の絵解き」。
野間大坊には、尾張藩初代藩主・徳川義直が幕府御用絵師・狩野探幽に描かせた屏風絵が遺されている。知多半島に落ち延びてきた義朝が家臣の長田忠致・景致父子に謀殺される様子を描いたものだ。その絵を住職の解説を聞きながら鑑賞するのが「義朝公最期の絵解き」(写真2、3)。単に屏風を見ただけでは感じることのできない、武将義朝の無念の思いが、住職の熱のこもった弁舌により聞く人の胸の中に再現される。
義朝の無念の思いを胸に刻んでお参りしたいのが、境内にある義朝の墓所(写真4)。参拝者が奉じた木立が無念の死を遂げた武将の霊を慰めている。
野間大坊には、ほかにも鎌倉幕府第5代将軍藤原頼嗣寄進の鐘楼(写真5)など見どころは多い。東海地方では、ドライブコースとして名高い知多半島。一行の旅はまだ続く。
文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。