文・写真/長尾弥生(海外書き人クラブ/台湾在住ライター)
台湾には多くの銘茶があるが、中心都市の台北市内にも世界的な産地があると聞いて驚いた。東京23区の半分の面積にも満たないこじんまりした台北市のどこに茶畑が?、と不思議だったが、茶畑は台北盆地の南側の山間に広がっていた。台北市文山区木柵(ウェンシャン区ムーズー)。そこは「キング・オブ・ティー」と呼ばれる鉄観音茶の世界二大産地の一つであり、知る人ぞ知る銘茶の里なのである。
鉄観音茶といえば、日本ではペットボトル茶にその名を見ることもあって親しみもある。しかし中国茶の世界では、生産量が少なく希少価値が高いことから「キング」とも位置付けられる本物の銘茶だという。
その特徴は、蘭のような花や蜜といった芳醇な香り。味には強さがありながらなめらかな喉ごしで、口の中全体に香りが広がり、後にじわじわと甘みが効いてくる。色はゴールデンシロップとも言われ、黄色や薄緑色の透明感あるお茶だ。
ロープウェイで猫空(マオコン)へ
高層ビルの建ち並ぶ台北中心部から車で約10分。猫空ロープウェイの始点、動物園駅からゴンドラに乗り、ぐんぐんと山を登り山を越えて約20分。終点の猫空(マオコン)駅に到着すると、そこは台北市内ながらも豊かな自然に囲まれた海抜300メートルの山間だ。
一帯は「木柵觀光茶園」と呼ばれる人気の観光地。茶畑を臨んで茶芸館やレストランが並び、茶畑の合間に延びる遊歩
鉄観音茶を台湾に持ってきた一青年、張迺妙の功績を想う
この木柵に鉄観音茶をもたらしたのは、中国の福建省からやってきた一人の青年・張迺妙(ジャン・ナイ・ミャオ)。鉄観音茶の産地として知られる福建省安渓に生まれ、幼い頃から有名な茶師のもとで茶の栽培や製造技術を学んできた彼は、20歳の時に新天地を目指し、船の片道切符を手に海を渡ってきた。1895年、ざっと120年も昔のことである。
張迺妙が初めて見る台湾の茶畑は、種類の違う茶樹が雑多に植えられており、品質が良くないことは一目瞭然だった。そこで彼はまず、茶の名産地である故郷の地形や環境に似た場所を探す。土や日あたり、水はけ、風、霧の発生などを観察して、最初は新店(シンディエン)に、その後、ひとつ山を越えた現在の木柵に移って茶畑を作った。現地で以前から作られていた烏龍茶の一種、包種(バオジョン)茶を研究栽培し、品質向上に励んだ。
当時、台湾は日本の統治下にあった。1916年に開催された包種茶品評会で、張迺妙の茶は金賞に選ばれた。結果に不満を覚えた他の出品者たちは「中国の師匠からもらった茶だろう。台湾ではこんなに良い品質の茶を作れるはずがない」と抗議するが、公正な調査の結果は間違いなく張迺妙が作ったものだった。すると今度は「鉄観音茶の汁を少し混ぜて色と香りをよくしたのだろう」と声が上がる。再調査の結果、張迺妙の茶園にある12本の鉄観音茶樹はいずれも若すぎて収穫できず、鉄観音茶混入の疑いも晴れた。紆余曲折を経て正式に台湾総督から金賞が授与されると、張迺妙は台湾の茶業界から一気に注目を集める存在となった。
その後、張迺妙は台湾総督府の依頼を受けて、包種茶や烏龍茶の栽培や製法技術を教える講師として各地を巡回した。茶作りは実に難しい。同時期に彼のもとで学んだ日本人技師2人は詳細な記録を残しているが、茶作りには天候、地形、水、土壌、気温が複雑に影響することを知り「中国茶は奥深くて謎だ」と嘆息するばかりだったという。多くの農家が張迺妙の指導を受けるようになると、台湾茶の品質は向上し、評価も高まっていった。
張迺妙、晩年に鉄観音茶を実らせる
さて、張迺妙が鉄観音茶に打ち込んだのはリタイア後であった。1936年に一旦故郷の安溪に戻ると、さっそく鉄観音茶を飲み、改めてその魅力に取り憑かれた。そして安溪の茶師たちに請い、鉄観音茶製法の極意を学んだのである。
鉄観音茶樹の栽培は容易ではない。天候にも左右されやすく、樹の寿命も他の茶樹に比べて短い。茶の特徴である香りを出すのも至難の技。手をかけなければすぐにダメになってしまう面倒な樹なのだ。
太平洋戦争中、木柵の茶園では茶の代わりに様々な穀物が植えられ、畑は荒れていた。ならば岩場や荒地を好む鉄観音茶樹をやってみてもよいかもしれない。張迺妙は木柵に戻り、鉄観音の苗木を植えた。近隣の農家にも苗木を分け、学んできた製法を惜しげもなく教えた。中国から茶師も呼んでさらに指導を受けた。
摘み取った茶葉を鉄観音茶に仕上げる伝統製法は他のどんな茶よりも複雑で手がかかるが、張迺妙はこう言うのだった。「よい茶を育て作れば、きっと暮らしもよくなる」。木柵の農家仲間と励ましあいながら辛い時期を乗り切ると、質の高い鉄観音茶を出荷できるようになっていた。
戦後、木柵鉄観音茶は多くの人たちを魅了した。「こんなお茶を飲んだことがない」と華僑は密かにお茶を海外に運び出し、外国人も各地で紹介した。茶の普及に一生を捧げた張迺妙が生み出した木柵鉄観音茶は、こうして世界で注目されるようになっていったのだ。
鉄観音茶が台湾に来て100年の節目にオープンした「張迺妙茶師記念館」
木柵観光茶園には張迺妙の功績を展示する「張迺妙茶師記念館(https://www.tiekuanyintea.com.tw/?lang=en)」がある。
現館長は張迺妙の孫である張位宜(ジャン・ウェイ・イー)氏。張迺妙の息子である父・張貴富(ジャン・グェイ・フー)氏の発案で記念館の建設が計画され、その後12年間の準備期間を経て1995年に開館した。張迺妙が初めて台湾に鉄観音茶を持ってきて100年目の記念年でもあった。
張迺妙に関する展示は記念館の2階にある。張位宜氏が祖父・張迺妙の足跡を辿って中国や台湾各地を訪れて集めた貴重な茶器や茶に関する資料が展示されている。また、現在も木柵で行なわれている伝統的な鉄観音茶製法が一目でわかるようになっており、発酵、揉捻、焙煎、乾燥などの一連の流れがいかに複雑で手間のかかるものであるかが想像できる。
1階は台湾各地の茶を試飲できるスペースと、茶葉や茶器のショップがある。中央にずらりと並んだ茶に関する書物は張位宜氏が収集し読み込んだもの。そして茶を楽しむために欠かせない茶器コレクションも豊富な品揃えだ。彼の探究心に祖父・張迺妙の面影を感じるのは果たして気のせいだろうか。
記念館では鉄観音茶のみならず様々な台湾茶を味わい学んでいってほしい。そう語る館長ご夫妻の想いに心温まりながら、茶畑を見下ろす指南路(ジィーナンルー)をロープウェイ猫空駅方面に歩いていくと、茶葉料理店が並んでいる。食事時であれば珍しい茶葉料理を楽しむのもおすすめだ。
張迺妙が種まいた木柵鉄観音茶に想いを馳せて木柵を散策する。眺めと味覚と知識を享受できる台北からたった30分の小旅行を楽しんでみてはいかがだろうか。
張迺妙茶師記念館 https://www.tiekuanyintea.com.tw/?lang=en
(館内ガイドツアーや試飲についてはウェブサイト参照)
猫空ロープウェイ https://www.travel.taipei/ja/attraction/details/984
木柵観光茶園 http://www.muzha.org.tw/html/leisure.asp(中国語)
文・写真/長尾弥生 (海外書き人クラブ/台湾在住ライター)
15年間のアジア暮らしを経て、現在は台北在住。著書に「バリ島小さな村物語」「フェアトレードの時代」など。執筆、編集のほか、写真、ウェブデザインも行う。海外書き人クラブ(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。