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海賊と言えば、なんと言っても村上水軍【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】薩摩半島

海賊と言えば、なんと言っても瀬戸内海で活躍した村上水軍だろう。三家に分かれた彼ら海賊衆は、ちょうど現在の本州・四国連絡橋のひとつ「しまなみ海道」(西瀬戸自動車道の愛称)沿いの能島・来島・因島に本城を構えて、戦国時代に瀬戸内海の最大勢力に成長した。

しかし海賊衆は瀬戸内海のほか九州などの西日本を中心に全国的に存在したし、秀吉が天正16年(1588年)に発令した海賊禁止令の後も消滅することなく、広域にわたって活動していた。読者の皆さんは、秀吉の禁令によって一気に海賊たちがいなくなったと理解されているかもしれないが、そんなことは決してないのである(拙著『秀吉と海賊大名』中公新書)。

以前、私は海賊禁止令関係の史料を博捜したことがあるが、秀吉が瀬戸内地域を制圧した天正13年、九州を征服した天正15年、そして海賊禁止令を発令した天正16年と、少なくとも3回は海賊禁止を命令したこと、それにもかかわらず村上氏をはじめとする海賊衆は、賊船行為(船舶を襲い人や物資を略奪すること)を繰り返していたことが確認できたのである。

なお天正15年に秀吉がターゲットにしたのが、長崎湾の先端に俵石城(長崎市)を構えて賊船行為をおこなっていた肥前の国人・深堀純賢だった。博多商人たちに訴えられた彼は、秀吉によって所領を没収された。今回の坊津への訪問に関わって、九州の海賊に関する興味深い史料に接することができたのでご紹介しよう。

前回もふれたように、文禄3年(1594年)に後陽成天皇に咎められた公家近衛信輔は、坊津に配流され約1年4か月を当地で逗留した。その時の記録は、信輔の日記『三藐院記(さんみやくいんき)』として公刊されている。

日記からは、山川港や坊津に交易のために唐船や琉球船が入港し、信輔も唐人や琉球人と親しく交流したことがわかる。たとえば、文禄3年5月20日に琉球人蔴文が唐紙などを献じ、酒宴の際には三味線を弾いている。また同月25日には唐人が訪れており、信輔は彼らが作詩するのを見物した。

この時期は、ちょうど文禄の役すなわち朝鮮出兵の大混乱期でもあった。戦場に動員された西国大名たちは、当然のことながら強力な水軍を組織せねばならず、海賊衆に対する需要が増加した。

たとえば、村上氏の家臣だった青木理兵衛は、仕官するために加藤嘉明のもとへ行く途中、黒田孝高から誘われて船手を預かる家臣になったという。理兵衛以外にも村上氏家臣の20名ほどが、一括して黒田氏家臣団に組織されている。出陣した西国の豊臣大名たちが海賊衆を必要としたことから、海賊衆が旧主や故郷を離れて各大名に仕官する兵漁分離(武士と漁民との身分分離)を促進する画期となったのである。

京・大坂と秀吉の本営が置かれた肥前名護屋(佐賀県唐津市)との間、あるいは肥前名護屋と朝鮮国との間の往復輸送の劇的な増加を考えると、諸大名にとって海事技術者としての海賊衆に対する需要は飛躍的に高まったと考えられる。

しかも朝鮮の戦場においては略奪が認められ、絶好の稼ぎ場となったことからも、海賊衆がふたたび活発に賊船行為をおこなったことは想像に難くない。海賊衆にとって異国の戦場は、人や物の略奪は思いのままで、まさしく魅力的なビジネスチャンスだったのである。ところが、国内においてもこの戦争のどさくさに紛れて九州の海賊衆が賊船行為を働いていたようだ。

たとえば、慶長の役の戦後処理のために慶長5年4月に徳川家康の命を受けて明人の送還にあたった坊津の商人鳥原宗安を船頭とする島津氏の渡明使節が、中国浙江省の役人の取り調べを受けた時の史料「撫浙奏疏」には、次のような興味深い記事がある。

人質の明人茅国科(朝鮮に派遣された遊撃軍の将茅国器の弟)は、「海賊が横行して帰路を阻むことを家康や島津義弘に訴えたところ、各島の海賊を捕らえ、そのうち11人を明に送り、日本が明を尊敬する意を表明しようとした」と述べている。朝鮮出兵時には、相当数の海賊たちが賊船行為を働いていたとものとみられる。

宗安をはじめとする乗組員が坊津周辺を出自とする者であることから、捕縛した海賊衆については、先にみた山川港や坊津に入港しようとする唐船や琉球船を襲った者である可能性も少なくないであろう。深堀氏のように、要港周辺には海賊衆が頻繁に出没していたのであるから。

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山川港の現況

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

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