文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)

今から約170年前、オーストリアで世紀のロイヤルカップルが誕生した。ハプスブルク家の若き皇帝フランツ・ヨーゼフと、バイエルン貴族の娘エリザベートとの婚約だ。広大な領土を持つオーストリア帝国は祝賀ムードに包まれた。

18歳で即位したフランツ・ヨーゼフと、バイエルン公女として奔放に育ち、ハプスブルク家に嫁ぐなど夢にも思ってもいなかったエリザベート。この二人は、どのように出会い、恋に落ちたのか。

帝国を驚かせた、意外な婚約の裏側に迫る。

バート・イシュルの街並み

バート・イシュルでのお見合い

避暑地バート・イシュル。アルプスの湖水地方ザルツカンマーグートに輝く、宝石のようで、帝国時代の栄華を感じさせる町だ。

この町には、皇室と切っても切れない所縁がある。子宝に恵まれなかった先代皇帝フェルディナント一世の弟フランツ・カールとゾフィー夫婦は、主治医にこの地での温泉療法を勧められた。その結果、長男フランツ・ヨーゼフと次男マキシミリアンが生まれ、ハプスブルク家は跡継ぎを得たのだ。それ以来皇帝一家は、毎年夏をこの地で過ごしている。

皇帝お気に入りのカフェ「ツァウナー」

フランツ・ヨーゼフがこの地を愛し、毎夏を過ごしたことから、夏場はバート・イシュルに多くの著名人が集結し、アルプスの避暑を楽しんだ。ヨハン・シュトラウス二世、レハール、ブラームスやブルックナー等の音楽家も好んで滞在し、ゆかりのヴィラなども立ち並んでいる。

皇帝のお妃選び

1848年に伯父の後を継ぎ、18歳で欧州有数の大帝国の皇帝の座に就いたフランツ・ヨーゼフは、即位から5年を迎えていた。ドイツ方面へ味方を増やすため、皇帝の母ゾフィーは、バイエルン公爵と結婚している妹のルドヴィカに、いとこ同士の結婚を持ち掛けた。

こうして、ルドヴィカの長女ヘレネが、皇帝のお妃候補となる。ヘレネはお行儀も良く、性格も温和で、花嫁修業に必要な教養も備えていた。一方次女のエリザベート(愛称「シシィ」)は、自由を愛する父親の影響で、池で泳いだり、裸足で走り回ったりと、自由な生活を楽しんでいた。

ゾフィーの名がつけられたトラウン川沿いのプロムナード

1853年8月、皇帝の誕生日をバート・イシュルで祝うため、ルドヴィカ一家が招かれた。18歳の長女ヘレネと皇帝を対面させるのが目的だ。15歳の次女エリザベートも同行した。

8月16日午後、ルドヴィカたちは、予定より遅れてバート・イシュルに到着する。三人は、親戚に不幸があったため喪服を着て旅をしていたが、身支度が整わず、ほぼ着の身着のままで皇帝とのお茶会の席に着いた。

会場は、皇帝一家が夏の住居としていた、トラウン川沿いのヴィラだ。後にホテルとなった後、現在は郷土博物館となっていて、実際にこのお茶会の会場となった、川に面した二階の部屋を訪れることができる。

旧ホテル・オーストリア、現バート・イシュル郷土博物館
お茶会が開かれた一室には、エリザベートとフランツ・ヨーゼフの肖像画も

しかし、お見合いの場で、母親たちの計画はもろくも崩れ去る。皇帝は、母親同士が結婚相手として考えていたヘレネではなく、妹のエリザベートに一目ぼれしたのだ。

皇帝の恋心と揺れる思い

翌日、皇帝は母ルドヴィカに「シシィ(エリザベート)はとても魅力的で、新鮮なアーモンドのようだ」と述べている。母親は何とか皇帝がヘレネを選ぶよう差し向けるが、皇帝の心は変わらない。

その夜、舞踏会が開かれた。皇帝はエリザベートを最後のダンス「コティヨン」の相手に選び、花束を贈る。皇帝の選択は、だれの目にも明らかだった。

更に8月18日のフランツ・ヨーゼフの誕生日には、皇帝はエリザベートが隣に座ることを望んだ。エリザベートは侍女に「皇帝のことは好きです。彼が皇帝でさえなければ!」という言葉を残している。この日皇帝は正式に、ルドヴィカに対して書面で婚約の許可を求め、それに対して承諾の返事を受けた。

非公式婚約発表は教会で

8月19日朝、皇帝はエリザベートが宿泊しているホテルを訪れ、二人で会話する時間をもうけた。ここで正式なプロポーズが行われたとされている。その後、両家は教会にミサを受けに向かった。

聖ニコラウス教会

この教会の入り口で、事件は起こった。皇帝の母ゾフィーが、未来の皇妃エリザベートに道を譲り、先に教会に入らせたのだ。この場面を見て、その場にいた人たちは皆、新しい皇后が誰になるのかを知った。

ミサの最後にハイドンの皇帝賛歌が歌われると、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの手をとり、神父の元へ行き、「祝福してください、神父様。彼女が私の花嫁です」と、紹介した。

こうして二人の婚約は、神の前でも公になり、同日婚約式が執り行われた。

聖ニコラウス教会内部

世界遺産ハルシュタットへ

その後二人は、ディナーのために世界遺産ハルシュタットへ向かった。今でもハルシュタットの街角には、婚約直後の二人の訪れを記念した史跡がある。未来の妻が寒くないよう、マントをかけてやる皇帝の姿も見られるなど、ほほえましい二人の姿は、注目の的だった。

世界遺産ハルシュタット

この婚約の後、エリザベートとフランツ・ヨーゼフは2週間ほどバート・イシュルに滞在し、結婚の準備や肖像画の作成等に追われたが、二人きりになる時間はほとんどなかったと言われている。その後エリザベートはバイエルンに、フランツ・ヨーゼフはウィーンに戻り、7か月間の結婚準備期間に入る。

エリザベートがオーストリア皇妃として、ドナウ川を下ってウィーンに輿入れしたのは、翌年4月、エリザベート16歳のことだった。

婚約プレゼントは夏の離宮

皇帝の母ゾフィーは、婚約祝いに二人に夏の離宮をプレゼントした。ヴィラ・エルツという建物を買い取り、数年間かけて左右の翼を増築し、「カイザーヴィラ」(皇帝のヴィラ)と名付けた。建物はエリザベートを示す「E」の形になっている。

このヴィラで皇帝は毎夏を過ごし、皇后専用の小さな大理石の城を作らせ、庭園を散歩した。内部には数えきれないほどの鹿の角が飾られ、皇帝の趣味であった狩猟の成果を伝えている。

長い結婚生活は順調とは言い難く、エリザベートは旅から旅へとさすらい、皇帝と過ごす時間は限りなく少なかった。晩年すれ違いの日々を過ごしていた皇帝と皇后が最後に会ったのは、1898年7月15日、このカイザーヴィラの庭園であった。エリザベートはその後ジュネーブに向かい、アナーキストにより暗殺される。

参考記事:オーストリア皇后エリザベートの暗殺者、アナーキストのルイジ・ルキーニの一生(https://serai.jp/tour/393419

エリザベートを見送ったフランツ・ヨーゼフは、1914年、このカイザーヴィラで第一次世界大戦の宣戦布告の書類に、自筆のサインをしたのを最後にこの地を去り、その二年後にウィーンで亡くなっている。まさに歴史の証人となったヴィラだ。

カイザーヴィラ

* * *

皇帝の避暑地バード・イシュル。皇帝が恋心を胸に歩いた川沿いのプロムナードや、婚約が公になった教会、夏の離宮カイザーヴィラを訪れると、巨大帝国の皇族の、世紀の一目ぼれが変えた二人の人生の重みを実感する。

※カタカナ表記は、現地語の読み方と異なる場合がありますが、ミュージカル「エリザベート」の表記に準拠しています。

文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。監修やラジオ出演も。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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