文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
第一次世界大戦の火ぶたを切った「サラエヴォ事件」。ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたサラエヴォで暗殺されたのは、この地を支配下に置くオーストリア帝国の皇位継承者、フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーだった。
巨大な帝国内に渦巻く民族主義運動の犠牲となったフランツ・フェルディナントだが、その人となりや家族愛、日本との関係などはあまり知られていない。現在も末裔が管理する居城「アルトシュテッテン城」を訪ね、教科書には書かれない、フランツ・フェルディナントの素顔に迫る。
なぜ「皇太子」ではなく「皇位継承者」に?
オーストリア帝国最長の治世を誇り、安定した時代を築いたフランツ・ヨーゼフ帝。彼には三人の弟と、一人息子、皇太子ルドルフがいたが、皇太子は30歳の時、心中事件を起こし亡くなってしまう。
次の皇帝候補探しは難航した。皇帝の弟であるカール・ルートヴィッヒが有力視されていたが、皇帝より先に亡くなったため、その長子であるフランツ・フェルディナントが皇位継承者となる。
それと同時に、未来の皇妃探しが急ピッチで進められたが、フランツ・フェルディナントには既に恋人がいた。チェコの古い伯爵家の末裔で、ゾフィー・ホテクという人物だ。貴族出身とは言うものの、未来のオーストリア皇妃としては、身分が低すぎることから、強い反対にあった。
この世紀の貴賤結婚は、まさに「無理を通せば道理引っ込む」だった。ハプスブルク家はつり合いが取れるよう、ゾフィーに「ホーエンベルク侯爵夫人」という爵位を作って与える一方、皇族としての特権を放棄させ、生まれた子供には皇位を継がせないなどの、厳しい条件をつけた。そのため、ゾフィーは皇位継承者の妻であっても公式の場では末席に座り、末裔は現在でもハプスブルクではなく、ホーエンベルクの苗字を名乗っている。
このような経緯で、自らが皇帝の息子でもなく、自らの子孫を帝位に就けることもできない、一代限りの「皇位継承者」が誕生したのだ。
世界一周旅行と日本訪問
まだ皇位継承者のお鉢が回ってくる前の1892年、29歳のフランツ・フェルディナントは、一年間の世界一周旅行に出かけている。インド、インドネシア、オーストラリアから日本、アメリカを回ってヨーロッパに戻る、壮大なルートだ。
狩猟をこよなく愛したフランツ・フェルディナントは、オーストラリアではカンガルーとエミューを、インドでは象をしとめた。また、世界の珍しいものを集める趣味もあり、世界各地で民芸品を収集し、現在もその民俗学的資料は、ウィーン世界博物館などで見ることができる。
日本滞在中は、1か月かけて長崎から東京まで移動し、入れ墨を入れたり、神社や城郭を見物したり、温泉で浴衣を着たりしたほか、東京で明治天皇にも謁見を果たした。
アルトシュテッテン城
そんなフランツ・フェルディナントの居城を訪れてみよう。ウィーンから車で西へ1時間半ほど、世界遺産ヴァッハウ渓谷の先にある、アルトシュテッテン城だ。
城自体は13世紀には記録に残っており、16世紀にルネサンス様式に改築された後、19世紀にはハプスブルク家の所有となっている。フランツ・ヨーゼフ帝の父から弟へと所有権が移り、その息子のフランツ・フェルディナントの夏の離宮として使われていた。ここでは、宮廷のしがらみから離れ、愛する妻や三人の子供たちとゆったりと夏を過ごしたのだろう。
サラエヴォ事件でフランツ・フェルディナントが暗殺された後、13歳の長男マキシミリアンに城の所有権が移ったが、1919年には爵位が廃止され、1938年のナチスによるオーストリア併合に反対して領地も没収され、長男と次男エルンストはダッハウ収容所へ送られた。城が再び末裔の手に戻るのは1949年、第二次世界大戦後だ。その後、マキシミリアンの長男のフランツ、その妻エリザベト、その長女アニタへと移り、現在もフランツ・フェルディナントとゾフィーの末裔が管理をしている。
アルトシュテッテン城には、フランツ・フェルディナント博物館があり、彼の私物のほか、妻への贈り物や家族の生活を偲ばせるもの、狩りの獲物や、世界旅行で集めた民芸品などが展示されている。日本の要素も随所にちりばめられていて、不思議と懐かしい気分になる。
また、居住空間や子供部屋も再現されていて、家庭を愛した夫婦の姿が目に浮かぶ。
また、広々としたテラスカフェや教会、広大な庭園もあり、クイズラリーも用意されている。ゆっくり一日旅行を楽しむのにぴったりの城だ。
皇位継承者の永眠の地
ハプスブルク家の皇族は通常、ウィーンのカプツィーナ礼拝堂地下納骨堂に埋葬される伝統がある。しかし、貴賤結婚のため皇族以下の扱いを受けた妻ゾフィーの棺が、ハプスブルク家の墓所に置かれないことは、生前から決まっていた。そのため、この城の地下に墓所が作られた。これを受けフランツ・フェルディナントは、先祖と共にカプツィーナ礼拝堂に埋葬されることを拒否し、妻と共にいることを選んだのだ。
二人の棺には、「結婚のきずなによって結ばれ、同じ運命によって一つになった」と書かれている。「同じ運命」とは、サラエヴォ事件で、夫婦同時に暗殺されたことを指しているのだ。
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世界史の教科書で見る、あのサラエヴォ事件で殺された皇位継承者としてだけではない、素顔のフランツ・フェルディナントの姿が、このアルトシュテッテン城には残されている。
世界旅行経験者で、狩猟と収集を趣味とする生活に、ひょんなことから皇位継承権が転がり込んできた時から、彼の人生は、ねじれ始めていたのかもしれない。幸せな家庭生活の一方で、貴賤結婚により不当な扱いを受ける妻子。民族主義運動のうねりの中で標的にされて起きた、暗殺事件。
宮廷や公務では、理不尽な思いも多かったであろうフランツ・フェルディナントだが、少なくともこの城では、愛する妻と子供たちに囲まれ、幸せなひと時があったのではないだろうか。
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。