日本各地には多くの湧水がありますが、その中で、何故か名水と呼ばれる水があります。ただ、美味しいというだけではなく、その水が、多くの恵みをもたらし、人々の命に深く関わり、生活を支えてきたからに他ならないからでしょう。それぞれの名水からは、神秘の香りと響きが感じられます。
名水の由来を知ることは、即ち歴史を紐解くことであり、地域の文化を理解すること。名水に触れ、名水を口にすれば、もしかすると、古の人々の想いに辿り着くことができるかもしれません。
歴史ある水を訪ね古都を歩きます。
地方を旅しておりますと、寺社仏閣、史跡の多さを実感いたします。どんなに小さな村や町にでも、お寺、神社は必ず在るもので、それら一つ一つが、その地域の大切な歴史資料としての役割を担っております。偶々、通りすがりに見付けた神社、立ち寄って境内に立つ駒札を読んでみて、予想もしなかった歴史上の人物や事件と深い関わりを持つ社であることを知り、驚くこともしばしばです。
そんな出会いがあると、歴史の面白さを再認識すると共に、その地への親しみやゆかりの人物への関心を持つ契機にもなったりします。名水散策においても、名の知れた昭和や平成の名水百選ばかりでなく、地方を訪れることによって面白い逸話を持つ名水に偶然に出会えることもございます。
今回の古都の名水散策では、偶然に出会えた名水を個人的なエピソードを交えながらご紹介させていただきたいと存じます。
偶然に巡り会えた戦国武将・山中鹿介ゆかりの名水
この記事を読んでいただいている読者の中にも、珍しい苗字を持つ家系の方もいらっしゃることでしょう。斯くいう私もその一人であり、苗字に関しては様々なエピソードがございます。
名刺交換をすれば、必ず「珍しいお名前ですね!」と切り出され、「どちらのご出身ですか?」と尋ねられる。そんな、お定まりのような会話から始まります。ビジネスの場面などでは、絶好のアイスブレークの話題となり、相手の方との距離を縮められたという思い出が沢山ございます。リタイアした今でも、珍しい苗字は初対面の方との交流に随分と役立ち、エピソードにも事欠きません。
そんな珍しい苗字を持つ家系に生まれたが故に、そのルーツ(ファミリーヒストリー)には少なからず興味を持つものです。歳を増すごとに遠い先祖が、どのような氏素性で、何を成したのか? を知りたいと思う気持ちが強まります。そんな思いから、幼少期に亡父から「先祖は尼子氏と縁があった」と聞いただけの漠然とした情報を頼りに、遠い祖先の地かもしれない、出雲・石見地方を訪ねてみることにしました。
先ずは、かつて尼子氏が長く居城としていた月山富田城(がっさんとだじょう:安来市広瀬町)を目指すことに。広島県側から島根県へ入るルートの一つ国道432号線を北西へと車を走らせておりました。
安来市広瀬町に入り、目指す月山富田城も間近となった布部(ふべ)という地区に差し掛かった時のことです。大きなポリタンクを数個並べ取水する人が目に入ったので、車を路肩に止め声をかけさせていただきました。お尋ねしてみると「尼子本陣の名水」と呼ばれている湧き水で「とっても美味しいので、よく汲みにきている」とのこと。
取水口の傍に立つ説明板を読んでみると、次のように書かれておりました。
「元亀元年2月(1570)尼子の武将・山中鹿介幸盛が、月山富田城を奪還するため布陣した中山街道の本陣付近を水源とする湧き水である。この名水は近くの安来神社御神水としても雨乞い神事に使用されたという。後に清水場の生活用水となる。旱魃でも枯れない。」
(安来市観光協会布部分室)
通りすがりの道端に湧き出している水が、戦国大名・尼子氏の忠義の家臣として、その名を知られる山中鹿介ゆかりの“水”であったとは……、故に歴史は面白い。
帰宅後「尼子本陣の名水」で入れたコーヒーを飲みながら、改めて調べてみると、「尼子本陣の名水」は布部山の戦い(ふべやまのたたかい)にまつわる水でした。
尼子氏再興を願う山中鹿介幸盛ひきいる尼子氏再興軍と、それを阻止する毛利軍とが激しく衝突。善戦するも尼子氏再興軍は敗れ、御家再興は叶わなかったという史実を知るに至りました。そうした歴史に触れながら「尼子本陣の名水」で入れたコーヒーを飲むと、普段よりも、いささかほろ苦く感じられました。
尼子氏の居城・月山富田城とその城下町広瀬に名水を訪ねる
「尼子本陣の名水」の場所から、約10分ほど車を走らせると旅の目的地、月山富田城に到着。
駐車場から見上げる城跡の大きさに圧倒されながら、さっそく月山山頂部にある本丸を目指して登ることに。出雲地方の歴史を語る上で、重要な史跡の一つということもあって見事に整備され、往時の壮大な城をイメージすることができました。標高190メートルの山頂までの所要時間は、おおよそ1時間ほど。
途中見所も多い中、圧巻なのが月山山腹にある「山中御殿」。城主の居館があったとみられている場所で、山頂天守部を背面にして周囲を石垣に囲まれた巨大な曲輪からは、尼子氏全盛期の権勢の大きさが偲ばれました。七曲りと呼ばれる急峻な坂を登り切ると三の丸、二の丸、本丸と続き、一気に視界が広がります。月山頂上部からの眺めは素晴らしく、島根半島、中海、弓浜半島までも見渡すことができました。
権勢を振るった戦国大名・尼子経久の気分を味わえる瞬間とでも申しましょうか、城郭ファンの気持ちが少しわかった感じがいたしました。
月山富田城を後にして、広瀬の町並みを歩いてみることに。町の歴史紹介によると、広瀬は過去幾度となく大洪水や大火に見舞われ、現在の町並みは、大正4年(1915)に起こった大火以降に復興された、歴史的には比較的新しい町とのこと。しかし、町を散策してみると重厚で趣のある商家の建物が連なっており、戦国時代からの歴史の繋がりを感じさせてくれました。
散策している中で、特に印象的なのが古い酒蔵。その駐車場の入り口に立つ「島根の名水」と書かれた大きな看板が目に止まりました。近寄ってみると以下のような説明が書かれておりました。
寛文6年(1666)4月、広瀬藩創設以来藩主が使用していた「萩の茶室」は、藩邸の北西にある御山にあり、その麓にあった井戸水がお茶の水として歴代藩主によって保存使用されてきたと言われている。
お茶の水は不昧流(ふまいりゅう)で最高の水といわれ第8代藩主、松平直寛(1783~1850)は宗藩松平治郷(不昧公)に特別に重用され、親しく師事して茶道を学んだ。
茶人、根土宗静も不昧公に師事し広く藩士、町家に伝え広瀬藩では不昧流が盛んになった。
明治4年(1872)廃藩置県に至るまで206年間藩邸のお茶の水として飲用されたこの水も昭和の時代に至り埋もれた古井戸となり、わずかに湧き出しているにすぎなかったが、町内の吉田酒造株式会社が島根大学の理学博士、三浦教授の指導のもとに井戸掘り工事を施工し地下岩盤より湧き出す豊富な純良水を確保し、206年間藩主の使用した当時の井戸を復元した。
湧水一つにも深い歴史があることを、改めて実感。「お茶の水」を管理する吉田酒造さんにお話を聞いてみると、実際に「お茶の水」を使用して酒造りをしておられるとのこと。『水質は、超軟水でお酒作りには最適な水です』と話され、代表的な銘柄「月山」をご紹介いただいた。
自分のルーツに繋がるかもしれない、初めて訪れる地。そこで、出会えた名水と銘酒に不思議な親しみを感じました。路傍の史跡や小さな祠に足を止めることで、意外な歴史に出会えるかもしれません。それも旅の楽しみ方の一つのように思います。
所在地・アクセス
住 所:〒692-0404 島根県安来市広瀬町広瀬
鉄 道:JR西日本 山陰本線 安来駅より車で約20分
自動車:山陰自動車道 安来ICより車で約15分
取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/小菅きらら
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com
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