日本各地には多くの湧水がありますが、その中で、何故か名水と呼ばれる水があります。ただ、美味しいというだけではなく、その水が、多くの恵みをもたらし、人々の命に深く関わり、生活を支えてきたからに他なりません。それぞれの名水からは、神秘の香りと響きが感じられます。

名水の由来を知ることは、即ち歴史を紐解くことであり、地域の文化を理解することでもあります。名水に触れ、名水を口にすれば、もしかすると、古の人々の想いに辿り着くことができるかもしれません。

歴史ある水を訪ね古都を歩きます。

“ある特定の水”が「名水」と呼ばれるには、それなりの理由、原拠があらねばなりません。そして、取材対象とするか否かを判断するにあたっても、理由や原拠は誠に重要なファクターであります。何を置いても「現地へ赴いてみたい」と思わせてくれるだけの魅力が欲しいところです。

「名水」とされている理由や原拠は様々ですが、それらを大まかに分類すると次にように分けることができます。御利益(病気平癒、健康、長寿など)、歴史と伝承、祭事と信仰、食文化などですが、取材していて興味深く面白いのは、やはり「歴史と伝承」分野で、人物所縁(ゆかり)の名水であります。

取り分け戦国武将にまつわる名水となりますと、自然と取材にも熱を帯びて、掛ける時間も多くなりがちです。

今回、取り上げます「若草清水」も、名将の呼び声高い蒲生氏郷(がもう・うじさと)公に纏わる「名水」とあって、実に楽しい取材となりました。

野公園にある蒲生氏郷公像
滋賀県日野町上野田のひばり野公園にある蒲生氏郷公像

今も人々の心を魅きつける戦国武将・蒲生氏郷の人となり

まずは、戦国武将・蒲生氏郷の人となりを簡単に触れておきます。

世を去り、既に四百年以上が経過しているというのに、戦国武将・蒲生氏郷公の逸話は、まるで、近代に起こったことのように色褪せることなく、語り継がれています。中でも有名なのが、次に紹介する家臣との泣かせるエピソードです。

1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」で武功を挙げた蒲生氏郷は、翌年には12万石を加増され伊勢国へ転封となっています。しかし、松ヶ島城を居城として間もない頃は、資金繰りに苦労しており、武功を挙げた家臣へ十分な恩賞が出せなかった時期があったそうです。そうした頃、手柄を立てた家臣を屋敷へ招いて持て成したことが、彼の家臣思いの美談として今に伝えられています。

主君である蒲生氏郷から屋敷へ招かれ、客人のように料理やお酒のもてなしを受け、風呂まで勧められた家臣が喜んで風呂に浸かっていると、風呂の外から「湯加減はどうかな?」と聞き覚えのある声がしたというのです。家臣が湯殿から外を覗いてみると、そこには、煤(すす)で真っ黒になりながら、薪をくべる主君・蒲生氏郷の姿があったのです。家臣は驚き涙します。

主君自らの手厚いもてなしを受け、心を打たれた家臣によって、その話は「蒲生風呂」として家中に広まることになります。それを聞いた家臣達は「自分も手柄を立て、殿の風呂を賜りたい」と、争うようにして忠義に励んだと伝えられています。

蒲生家代々の菩提寺・信楽院にある蒲生氏郷遺髪塔と縁者の墓
蒲生家代々の菩提寺・信楽院にある蒲生氏郷遺髪塔と縁者の墓

こうした美談を残している戦国武将・蒲生氏郷の生誕地(滋賀県蒲生郡日野町)には、蒲生家ゆかりの史跡や遺構が数多く残っております。

城郭跡が残る中野城址(現在は日野城址と呼ばれることが一般的になっている)や蒲生家代々の菩提寺・信楽院、蒲生氏郷公・産湯の井戸などは、蒲生氏郷公を愛する人達の聖地にもなっているようです。また、蒲生氏郷顕正会という組織まであり、彼の功績を長く世に伝えたいという活動が行われています。

蒲生氏郷公りかりの史跡を示す地図
ひばり野公園にある蒲生氏郷公ゆかりの史跡を示す地図

茶道繁栄の影の功労者とも言われる蒲生氏郷のエピソード

蒲生氏郷という武将を調べてみると、実に多彩な能力を持っていた人物であったことが窺えます。

幼くして織田家へ人質として差し出されるも、若年にもかかわらず次々と武功を挙げ、その才覚は信長からも高く評価され寵愛を受けたと伝わっています。

そのことは、信長が娘・冬姫を娶らせたことからも窺い知ることができるでしょう。武勇に優れた武将であると共に、文化人であったことも良く知られています。1585年(天正13年)には、キリスト教へ入信し「レオン」という洗礼名を授かったとする記録も残されております。

中野城址にある蒲生氏郷と冬姫の足跡を示す看板

このキリスト教への入信は、親交の深かった高山右近(たかやま・うこん)からの熱心な勧めがあったからとされていますが、当時としては、先駆的な武将であったと言えるでしょう。特に、見逃せないのが文化人としての側面です。茶の湯にも深い造詣があったことは、千利休の高弟「利休七哲」に名を連ねていることでも理解できます。

蒲生氏郷公の功績が書かれた銘板
蒲生氏郷公の功績が書かれた銘板 

さらに、蒲生氏郷は茶道繁栄の礎を成したとも言われています。その逸話を、紹介しておきましょう。

千利休が、豊臣秀吉の怒りに触れ切腹を申し付けられた時のこと、千家の取り潰しによって茶道が廃れることを憂慮した蒲生氏郷は、千利休の養子にして女婿である少庵を会津領内に匿ったとされております。

その後、頃合いを見計らい秀吉へ少庵の助命嘆願を願い出て、少庵が京都へ帰還できるよう取り成したとの伝説が残っており、この時の氏郷の行動が、現在の表千家、裏千家、武者小路千家の繁栄へとつながったとの見方をする歴史研究家もおります。

こうした逸話からも、氏郷が“機を見るに敏”にたけ、人情があり才知ある人物であったことがわかります。

「侘茶(わびちゃ)」の雰囲気が漂う「利休七哲」と謳われた茶人が愛した名水

先ほどから文中に登場する千利休の七人の高弟「利休七哲」とは如何なる人たちであったのかと調べてみますと、時期により顔ぶれは変動するのですが、次の七人の武将とされています。加賀の前田利家、蒲生氏郷、細川忠興、古田織部、牧村兵部、高山右近、芝山監物であります。

中でも、蒲生氏郷について、千利休は「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評したと伝えられています。

「利休七哲」については、1652年(承応元年)に没した奈良の塗師(ぬし)家松屋久重の編の『茶道四祖伝書』に「七人衆」として、記載されているのが始まりとされています。

京都大徳寺の塔頭黄梅院にある蒲生氏郷公の本廟

「利休七哲」の一人であった蒲生氏郷が、茶の湯に使用していたとされる湧水が、生誕地である蒲生郡日野町村井に大切に残されておりますので訪ねました。村井地区は、今も古い城下町の風情が感じられる住宅地です。そんな住宅地の外れに小さな地蔵堂が在り、そのすぐ下に「若草清水」は湧き出しておりました。

「若草清水」の近くにある地蔵堂と説明板

「若草清水」の湧水地には、歴史を感じさせる二つの石碑が立っており、うっすらとであるが文字が確認できます。日野町の観光協会の説明によりますと「若草清水」の中に建つ石碑は、島崎雲圃という画家が「若草清水」の由緒を書いた碑。

その奥に建つのは、谷孝道が「若草清水」を読んだ歌碑で、「たちよれば やがて心の底すみて むすぶにあかぬ 若草のみず」と彫られているとのことです。

「若草清水」の由緒を書いた碑と、歌碑
「若草清水」の由緒を書いた碑と、歌碑

「若草清水」の周囲は、田畑が広がり誠に長閑な処。「侘茶(わびちゃ)」を愛した茶人らしい素朴な風情が感じられ、激しい戦の合間に、この湧水の傍で野点(のだて)を楽しみ、心と身体を休める蒲生氏郷の姿を空想してしまいました。

若草が芽吹くころ、蒲生氏郷の生まれ故郷を訪ねてみては如何でしょうか? きっと心静まる一日となることでしょう。

所在地・アクセス

住 所/〒529-1604 滋賀県蒲生郡日野町村井
交 通/JR近江八幡駅または近江鉄道日野駅から
     北畑口行バス村井本町(停)下車。徒歩約5分。
自動車/名神高速道路 竜王ICから車で約50分

取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/和泉透司
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

 

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