文/柿川鮎子
死に至る病との闘いは、今にはじまったことではありません。目に見えない敵との闘いの歴史の中で、日本人が勝利をおさめた病気のひとつが、狂犬病です。世界では毎年約5万5000人が命を落としていますが、日本では1957年以降、国内での発症例はゼロに抑えられています(帰国者を除く)。日本は世界でたった8カ国しかない狂犬病清浄国として、死の病をコントロールすることに成功しています。
発症したら致死率は100%で、現在でも発症後の治療薬がない、恐ろしい狂犬病。先人たちの苦難の道のりを振り返ると、希望の光が見えてきます。歴史に学びつつ、病との戦いを勝利に導く手がかりを、さぐってみましょう。
■約4000年にも及ぶ人類と狂犬病の戦い
狂犬病ウイルスは犬、猫や野生動物など、感染した生物の唾液などから、人間の体内に侵入し、脳炎を引き起こします。強い神経症状から、水すら飲めなくなるので恐水病(症)、あるいは風にあたっても痛みを感じるので、恐風病(症)とも言われました。
現在、新型コロナウイルスの影響により、各地で狂犬病の集合接種が延期となっています。何となく、このまま接種しなくても良いと思ってしまいがちですが、狂犬病はある意味、新型コロナウイルスよりも恐ろしい病気でした。
狂犬病に関する最も古い記録は、紀元前1930年頃に発令された、エシュヌンナ法典です。有名なハムラビ法典(ハムラビ王在位紀元前1729~1686年)にも、狂犬病に関する罰則規定が載っています。狂犬病と人類の戦いの歴史は約4000年。約100年前までは原因不明の不治の病でした。
■狂犬病も新型コロナウイルスも海外から
日本で狂犬病に関する最も古い記録は717年に発布された「養老律令」で、「其(そ)れ狂犬(たぶれいぬ)有らば所在殺すことを聴(ゆる)せ」と書かれていました。藤原不比等(659~720年)らが養老2 (718) 年に制定した法律で、狂犬病の犬は殺処分すると定められていました。
大流行したのは享保17(1732)年、長崎の出島に上陸した狂犬病は九州全土に広まり、江戸から下北半島に至るまで猛威を振るいました。特に九州一帯の被害は甚大で、家畜や野生動物が死に絶え、見るも恐ろしい光景が広がっていたと伝えられています。
明治時代、横浜が開港され、来日した外国人が連れてきた猟犬から、狂犬病が再び大流行します。グローバル化が流行の背景にあった点は、今回の新型コロナウイルスによく似ています。
■狂犬病撲滅に貢献したコッホとパスツール
現在でも約9割が犬からの感染ですが、4000年前から、犬に咬まれて狂犬病になることは知られていました。ギリシャの哲学者アリストテレス(紀元前384~322年)は「動物誌」に「犬は3種類の病気にかかる。このうち狂犬病は狂気を起こし、咬まれた動物はヒト以外はみな狂気になる」と書いています。
身近な恐ろしい病気でしたが、
1885年にはルイ・パスツール(1822~1895年)が狂犬病ワクチンを開発します。ワクチンは狂犬病の予防と同時に、感染しても発症前の早期ならば、病気を抑えることができます。人類と狂犬病との戦いにとって、大きな前進でした。
パスツールの時代、犬に咬まれると、患者は鍛冶屋へ行き、焼けたアイロンで傷口を焼きました。パスツールは鍛冶屋の近くで皮なめし業を営んでいた家に生まれます。鍛冶屋が傷口を焼く時の悲鳴を聞きながら育った、と伝えられています。
パスツール研究所の正門の横には、羊飼いの少年、ジャンーバプテイスト・ジュピエが犬と戦う銅像が建っています。ジュピエは狂犬から5人の仲間の少年を救い、深い咬み傷を負っていました。パスツールは彼にできたばかりの狂犬病ワクチンを投与し、ジュピエの命を救ったのです。
■長崎病院の内科医・栗本東明とGHQのサムス
日本の狂犬病の歴史を変えたのが栗本東明とGHQのサムスでした(日本を狂犬病の清浄国にした二人のキーマンと無名の人々)。
1894~95年にかけて、長崎県全域に狂犬病が大流行しました。長崎病院内科医長だった栗本東明(本名亀五郎、1853~1921年)はパスツールの開発した方法で、ウサギの脳を使って狂犬病ワクチンを完成させ、62名に接種したところ、60名の命を救うことができました。
さらに徹底した感染ゼロの撲滅作戦を行ったのはクロフォード・F・サムス(1902~1994年)、米国陸軍軍医准将兼、GHQ公衆衛生福祉局長でした。
野犬を一掃させ、国民向けに「狂犬病撲滅」の大々的な広告・宣伝を実施。1950年には「狂犬病予防法」を制定し、現在も行われている犬の登録と予防接種の義務化がスタートしました。
そしてついに1956年、6頭の犬を処分したのを最後に、日本から狂犬病が一掃されました。以来、60年以上、海外からの帰国者を除いて、狂犬病は日本から姿を消したのです。
■病の克服には人々の協力が必須
わたしたち日本人は狂犬病を克服し、世界でも8カ国しかない狂犬病清浄国となりました。動物、特に犬からの感染を避けるために、法律で犬の予防接種を定め、犬の発症を抑えることで、ヒトを守る作戦が成功したのです。
病気の元を断つというやり方は、現在の新型コロナ対策で行われている感染源をたたくクラスター作戦に、少し似ている気がします。
犬の飼い主さんが狂犬病予防接種に協力し、毎年、コツコツ接種してきたからこそ、狂犬病の大流行を抑えることができています。飼い主さん一人一人の協力がなければ、国内感染者ゼロの名誉ある記録を守ることは不可能なのです。
新型コロナウイルスも同じで、一人一人が感染しないように努力することでしか、病気を防ぐ術はないように思われます。私達一人一人が予防することが、いかに大切か、狂犬病との闘いが教えてくれているような気がします。
狂犬病をコントロールした日本人が、新型コロナウイルスをコントロールできないはずがないと、私は信じています。マスクを着けずに犬と散歩ができる日を、必ず取り戻すことができるでしょう。
文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。