取材・文/坂口鈴香

「過ぎてしまったことは、苦労とは思わない。今が一番幸せ」―“サ高住から脱走した”母に聞く

前回「サ高住から“脱走”した母」で紹介した船田郁也さん(仮名・55)の母、弘子さん(94)に話を聞くことができた。

弘子さんは宮崎で一人暮らしをしていたとき、体調を崩して入居することになったサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)が合わず、“脱走”したというほど、強い自立心の持ち主だ。

“脱走”の理由とは? そして94歳の今、初めての土地に行く決心がついたのはなぜなのか? 弘子さんの思いとは――

■何ごとにもタイミングがある

――今はどんな生活を送っていらっしゃいますか?

弘子さん ここでの生活にもすっかり慣れました。これまでの趣味だった俳句をつくったり、日記を書いたり。折り紙の上手な方がいて、習って折ったりもしています。毎日、やることがいろいろあって楽しいですよ。ここの方たちは皆良い方ばかり。嫌な人は一人もいません。1週間に2回、歌とお茶の時間があります。皆さんでいろんな歌を歌うのは楽しくて、時間があっという間に過ぎます。

――宮崎弁で苦労などはされていませんか?

弘子さん 私はもともと上海生まれ。銀行員だった父について、あちこちで暮らしました。宮崎に戻ったのは15歳のとき。それから80年近く宮崎で暮らしましたが、それほど方言も強くないし、どこでも適応できますよ。

――では、息子さんの住む首都圏に移るのも、思い切った決断というほどではなかったのでしょうか?

弘子さん いや、それは覚悟して出てきました。もう一人では暮らせないと。ただ、主人の50回忌を済ませたことは大きな区切りになりました。

主人は戦地で病気になり、陸軍病院に入って命拾いしたものの、それが原因で私が42歳のときに亡くなりました。上の子は学生でしたが郁也はまだ3歳。「苦労したでしょう」とよく言われますが、過ぎてしまったことはもう苦労とは思わない。ただ、息子たちは奨学金とアルバイトで大学を卒業しているので、子どもたちには苦労させたと思います。

その主人の50回忌も済ませたし、私も身体が弱ってきた。「もうこの辺で息子たちのところに行きますよ」と主人に報告して上京しました。何ごともタイミングというものがある。今だからできたことです。

住むところは、私が入れるところならどこでもよかったんですが、ここは良いですね。90代の人も多くて話が合うし、100歳を超えた方もいらっしゃって心強いです。地元の友達はもうほとんどいなくなってしまっていたので、地元への心残りも少なかったんです。

■サ高住“脱走”事件の真相

――以前入られた施設は嫌だったんですか?

弘子さん 前の施設は食事もあまりおいしくなかったし、自分の足で歩けたのに、自由に外出もできませんでした。それで「早く出してください」と言っても出してくれないので、「家に帰ります」と書き置きをして家出をしたの。自分でも自分のことをわがままだと思います。でもこの年になると無理はしたくない。嫌なことはガマンしたくないので、そのときのことは後悔していません。

――40年近く一人暮らしをしていらっしゃいましたが、大変ではありませんでしたか?

弘子さん 特別がんばったとは思わないですね。主人が亡くなって、がむしゃらに生きてきました。いろんなことをやりましたね。着物の仕立て、間貸し、50歳過ぎてからは習字の先生をはじめました。ただ、金銭的にそう大変だったわけではありません。主人は戦傷病者なので遺族年金も高額だし、父の遺産もありました。主人が早く亡くなったのは残念でしたし、戦争がなかったら違う人生を送っていただろうとは思いますが、そのおかげでこうしてお金に不自由しなくて済んでいるわけですから、そういう意味ではありがたいですね。どんなできごとにも、良い面もあれば悪い面もあるのよね。

今、通帳は長男が管理してくれています。お金も通帳も息子に預けて、必要なときに持ってきてもらうようにしています。でも、特にほしいものもないし、食べたいものもないの。料理は昔から好きではなく、仕方なくつくっていたので(笑)、今の上げ膳据え膳は天国ですよ。宮崎の自宅やお墓は子どもたちに一任しています。

――部屋にマリア像がありますね。クリスチャンなのですか?

弘子さん 主人が亡くなったあと、友人に勧められてキリスト教に入信しました。信仰は心の支えになると思います。毎日お祈りをしています。といっても、何かをお願いしているというわけではないの。ただ祈るだけ。

――息子さんたちのそばに来てよかったと思いますか?

弘子さん 長男は昔から厳しいの。部屋を見て、「トイレ掃除が足りていない」と叱られたり、折り紙をしていると「幼稚園生みたいなことをするな」と言われたりする。でも、聞こえないふりをして、あとで次男が来たときに愚痴るの。末っ子はやはりかわいいですよ。ここには家族が誰も来ない人もたくさんいます。ここにいる方の誰より、私の家族が一番会いに来てくれています。孫やひ孫にも恵まれて、自由気ままな毎日。今が一番幸せだと思っています。

取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。

 

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