文/印南敦史
いわゆる「名言」のたぐいに触れるだけで、気持ちがすっと落ち着いたりすることがある。
それは必ずしも、従来の価値観を揺るがすような大仰なことばではないかもしれない。きわめて当たり前なフレーズにすぎないかもしれない。
しかし、だからこそ心に訴えかけることがあるのだろう。それらのことばが、忙しい日常のなかで忘れかけていた大切なことを、ふと思い出させてくれるからなのだろうか?
だが時間がいくらでもあった学生時代とは違い、ひとたび社会に出ると、それらに触れる機会は少なくなるものでもある。本を読む機会は格段に減るし、たとえば通勤電車内でなにかに目を通すとすれば、ついスマホの画面に頼ってしまいがちだからである。
ましてや名言に触れたいとはいっても、「いつ、誰のことばを、どのように確認すればよいのか」についてはなかなか判断しづらい。誰の、どんな名言を、どんな書籍から引っぱってくればいいのかについて考える時間を、大半の現代人は持たないからだ。
そこでおすすめしたいのが、『一日一文 英知のことば』(木田 元 編集、岩波文庫)である。
せめて一日に数行でもいい、心を洗われるような文章なり詩歌なりに触れて、豊かな気持で生きてもらいたい。一年三六六日に一文ずつを配して、そうした心の糧として役立つような本をつくれないだろうかという提案を、去年の暮に岩波書店から受けた。(本書「はじめに」より引用)
編者は、現代西洋哲学書の多くを、わかりやすく日本語訳してきた実績を持つ哲学者。本書が単行本として出版されたのは2004年のことなので、当時は76歳だったことになる(2014年に逝去)。
そう考えるとなおさら、以下の記述には心に訴えかけるものがある。
敗戦後の荒涼たる日々に、放浪の旅の途上、どこかで拾った文芸雑誌も切れ端にすがりつくように読みふけり、心の渇きをいたした覚えのある私は、この提案に心から賛同し、岩波書店編集部OBの鈴木稔さんと同書店の編集者増井元さんに助けていただき、一年をかけてその作業をおこなってきた。(本書「はじめに」より引用)
とはいっても「名言」のたぐいに基準があるわけではなく、優れた文章や詩歌は星の数ほど存在する。つまり、そのなかから366篇を選び出す作業が容易であるはずはない。
もちろん、「この人ならこの一文」というようなものもあるだろう。しかしあまり有名なものやあまりに教訓的なものは選びたくないという思いも編者のなかにはあったようだ。「むしろ、その人の意外な一面をうかがわせるもののほうがいい」と考えたそうで、だとしたらそれは読む側にとっての期待感につながる。
だから結局は、自身の好みに従って、詳しくいえば「自分の心に響いてくるかどうか」を基準に決定するしかなかったのだと編者は認めている。だが、それでいいのだと思う。そんな思いが、選ばれたことばの存在感をより深めてくれるはずだからだ。
1月から12月まで、一日一編。無駄を省いたことばと、そのことばを残した人物のプロフィールが1ページ内に収められている。だから読者は、日めくりのような感覚で日常的に少しずつ読み進めていけるのである。
本来ならそのすべてをご紹介したいくらいだが、そうもいかない。そこで今回は、平成最後の日である4月30日、そして令和の初日にあたる5月1日のことばを引用しておこう。
4月30日 鏑木清方(かぶらききよかた) 1878.8.31〜1972.3.2
鶸(ひわ)色に萌えた楓の若葉に、ゆく春をおくる雨が注ぐ。あげ潮どきの川水に、その水滴は数かぎりない渦を描いて、消えては結び、結んでは消ゆるうたかたの、久しい昔の思い出が、色の褪せた版画のように、築地川の流れをめぐってあれこれと偲ばれる。
『随筆集 明治の東京』山田肇編、岩波文庫、一九八九年
日本画家。名は健一東京神田生れ。美人画や庶民生活に取材した作品には古き佳き江戸・明治の情緒が漂う。代表作「築地明石町」。また、折にふれての随筆もよくした。
(本書135ページより引用)
5月1日 メルロ=ポンティ 1908.3.14〜1961.5.3
現象学はバルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品とおなじように、不断の辛苦であるーーおなじ種類の注意と脅威とをもって、おなじような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味をその生れ出づる状態において捉えようとするおなじ意志によって。
『知覚の現象学』1、竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、一九六七年
フランスの哲学者。フッサールの現象学を基礎に、全体論的神経生理学やゲシュタルト心理学のもつ哲学的意味を究明し、人間存在の研究に新たな方向を切りひらいた。『知覚の現象学』『意味と無意味』『行動の構造』など。
(本書138ページより引用)
ちょっと息抜きをしたいとき、気軽に本書のページをめくってみてはいかがだろうか? そうすれば、思いもよらないことばに触れることができるかもしれない。
『一日一文 英知のことば』
木田 元 編集
岩波文庫:本体1,100円+税(税別)
2018年12月発売
文/印南敦史
作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』などがある。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)。