「100点しかありえない」そんな言葉を吐く両親の期待に応えるため、毎日が必死だった
箸の持ち方や所作などの躾は祖母が厳しかったそうですが、勉強に関しては両親が厳しかったとのこと。さらにある理由により、勉強を頑張らないといけない環境にあったと言います。
「父が仕事をしながら、PTAの会長を私が小学4年生から中学3年生までやっていたんです。そんな人の子供はしっかりしないといけないじゃないですか。模範生でいなければと、とにかく勉強を必死でやっていました。父は学校のスケジュールを把握していたので、私の成績を直で先生に聞くこともあって。だからいつでも気が抜けませんでした。
母親も成績には厳しくて、『100点以外はありえない』とよく言っていました。たとえ90点でも怒られた記憶しかありません。母が褒めてくれるのは、通知表がオール5の時と、100点を取った時、それに1学年に生徒が250人くらいいたんですが、テストの順位が10番以内に入った時ぐらいでしたね」
さらに由衣さんは、勉強以外にも多くの習い事を義務付けられていたそう。
「小学校の時に、公文に書道、そろばん、水泳、ピアノ、英語を習っていました。この中で自分から行きたいと言ったのは水泳だけ。中学に入ってからは塾、書道、水泳、英語、ピアノを受験ギリギリまでやっていました。こんなにたくさんやっていると、週7で何かの習い事があるんです。水泳や塾など週に2回以上あるものもあったし。だから家族旅行はもちろん、家族でどこかに出かけたことはありません。旅行は友人の家族に連れて行ってもらったことがあるくらい。家族団らんで何かをすることはなかったし、家族でどこかに出かけたいと思ったこともありませんでした」
高校の受験には両親からのプレッシャーが最高潮に。その辛さを労ってくれていたのは小さい頃からずっと優しかった祖父だと言います。
「うちの地元は、女子の進学校と言えばあの学校みたいなのが固まっていたところで、両親ともその女子高じゃないと中学浪人も辞さない感じでした。それに、田舎だったので、その学校に行くことがステイタスで、花嫁修業の一つだと小さい頃から言われ続けていました。
受験近くになると塾がほぼ毎日入ってきて、さらに習い事もあったので、家に帰るのが遅くなることが多かったんです。そんな私を見て、祖父は毎日送り迎えをしてくれていました。それは高校に進学した後もずっと、私が上京するまでずっとです。一度高校の時に私が知らない男の人から祖父と帰宅途中にチカンに遭ったことがあって。祖父は私の少し前を歩いていて、一瞬だったから防げなかったんです。その時に私と両親に泣いて謝ってくれて……。祖父がいたから一瞬でチカンは退散してくれたのに。本当に祖父は優しさの塊でしたね」
両親が希望した進学校への受験結果は……。そして、大学受験など、両親と対立する時にいつも味方になってくれたのは祖父だけ。しかし、祖父にはある秘密があり……。
【~その2~に続きます。】
取材・文/ふじのあやこ
情報誌・スポーツ誌の出版社2社を経て、フリーのライター・編集者・ウェブデザイナーとなる。趣味はスポーツ観戦で、野球、アイスホッケー観戦などで全国を行脚している。