文/印南敦史
定年を人生におけるターニングポイントと考えるならば、50代はその序盤だと考えることもできる。残りの時間を有意義に駆け抜けるための、助走のような期間だということだ。
などと書くと下の世代からは、「いい歳をしてなにが助走だ」と笑われるかもしれない。しかし、人生100年時代が現実のものとなるなか、実際問題として50代はまだまだ助走期間だと言えるだろう。
だいいち、50代になったからといって、悩みや迷いから解放されるわけでは決してない。
孔子の「論語」によれば、30歳にして精神的な立場を確立し、40歳で人生に対する疑いが消え、50歳で自身の生涯における使命を見極め、60歳で他人の言葉を柔軟に受け入れられるようになるそうだ。それどころか、70歳になれば悟りの境地に近づけるらしい。
ところが残念ながら、(少なくとも現代社会において)それは現実的ではない。私たちはまだまだ苦悩しているし、これからもするだろう。それどころか、光の見えないトンネルのなかから抜け出せないまま、ずっとそこにい続けるしかない人だっているはずである。
だが、下の世代にはそれが見えない。そのため50代は、誰にも心のうちを開かせないまま、つまりは不安を背負いながら人生の後半戦に向けて進んでいるのではないか。
では、どうすればいいのだろうか?
深刻に考える必要はない。我々よりもさらに数十年先にいる、先達のことばに学べばいいのだ。必ずしも身内にそうした人がいるわけではないだろうが、そんなときこそ書物にあたればいい。
そこで、ぜひとも目を向けてほしいのが、平凡社から創刊された「のこす言葉」シリーズだ。ひとつのことを極めた“人生の先輩”が、生きてきた過程において身につけた知恵や考え方などを、リアリティにあふれたことばで伝えてくれる語り下ろし自伝シリーズである。
その第一弾として刊行されたのが、今回ご紹介する『野見山暁治 人はどこまでいけるか』。1920年12月17日に生まれ、今月で98歳になる、文化勲章受賞歴も持つ洋画家、野見山暁治(のみやまぎょうじ)のことばを収録したものだ。
福岡県の炭鉱経営者の息子として生まれ、東京美術学校(現東京藝術大学)卒業後はパリで12年間過ごし、帰国後は藝大の教鞭に立った人物(のちに名誉教授になった)。ちなみ中学生時代に患った肺浸潤に長く悩まされたり、結婚相手に二度も先立たれるなど、私生活においてはいくつもの苦難を乗り越えてきてもいる。
ぼくは福岡の筑豊で、小さな炭鉱屋の長男として生まれた。よくこの画家の原点は、という言い方をするけれど、そんなに簡単に原点なんていうものじゃないと思っていた。人が何を感じて今の意識をもつようになったのか、いろいろなものが入り組んでいて、これ、と一つを単純に引っぱりだせるものではないと。(本書10〜11ページより引用)
出征することが決まると、奈良を旅しました。美校時代に一度、古美術研究の授業でひと月ぐらい行かされたことがあるんだ。寺や仏像とか、人がつくったものは絵に描くものではないと思っていたけれど、出征が決まって、あれをもう一度見て死のう、この世とさよならしよう、と考えたんです。(本書29〜30ページより引用)
肩書や身分、年齢や立場で態度を変えるのはおかしい。学生でも同じ絵描きなら、同じ目線で話す。若いときは生意気と思われたかもしれないけれど、年を取った今は、若い人から「分け隔てがない」と喜ばれる。傍からは「なめられている」とも見られる。でも、ぼくは変わっていない。
欲張りや、名誉欲のある人は大きらい。卑しい人、多いんだ。これまでそういう人と手を組んだことはないし、付き合っている人がそういう人だとわかったら、すぐに袂を分かつ。許せないという気持ちになって、決別してしまう、付き合わなくなった人は多いよ。本人は気づかずに「どうしたの?」と思っているみたいだけど。
肩書があるからいけない、それに左右されちゃいけない。ぼくもできるだけ避けて生きてきたつもりなのに、結果的にいっぱいくっついてきたから、いろいろと言われるけどね。(本書90ページより引用)
「こうしなければいけない」「こう生きなさい」というように、高い位置から読者を諭すわけではない。むしろ、そうした立場とは対極にある。あくまで、自分の目で見てきたものについて語り、自分で体験してきたことを語るだけだ。それも、淡々と。
それでいて説得力を感じるのは、ひとつの道を突き進んできたからなのだろう。
だから活字を目で追っていれば、どこかの瞬間で、いまの自分に必要なことばが飛び込んでくるのではないかと思う。それは参考書に書かれている答えのようにきっちりしたものではないだろうが、だからこそ心に響くのだ。
『野見山暁治 人はどこまでいけるか』
のこす言葉編集部 (編集), 野見山 暁治 (著)
のこす言葉 KOKORO BOOKLET 平凡社
2018年8月発売
文/印南敦史
作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』などがある。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)。