取材・文/わたなべあや
「猫のひげは切ってはいけない」というまことしやかな風説をご存知でしょうか?
動物病院の獣医さんに「本当に切ってはいけないのか?」と尋ねると、治療をする時にヒゲを切ってもとくに健康を害するようなことはない、ということでした。しかし、その理由はいまひとつはっきりしません。
そこで、東京農業大学で猫の生態について研究を重ね、いまも4匹の猫や2匹の小型犬とともに暮らす猫博士・大石孝雄先生に、犬と猫の「ヒゲの秘密」を解き明かしてもらいました。
■微妙な空気の流れをも感じ取れる
鼻の両脇や前足にも生えている猫のヒゲ。猫だけでなく、動物のヒゲは周囲の建物などを感知したり、平衡感覚を保ったりする重要な役割を果たしています。なかでも猫のヒゲは感覚が非常に鋭く、わずかな空気の動きでも察知。動くものにレーダーのように敏感に反応して、天敵が近くに現れると、すぐに警戒態勢に入るのです。また、猫は夜行性動物なので、薄暗がりで近くのものを探る時にもヒゲを使います。
優れた狩猟動物である猫にとって、ヒゲは生きていくのに必要な触覚器官なのですね。
■豊かな感情を表現できる
人間が目尻を下げて笑ったり、眉を吊り上げて怒ったりするのと同じように、猫はヒゲで感情を表します。
リラックスしている時は少し横に寝ている状態で、何かに興味を示している時は前向きに、鼻や口の前にヒゲが出てきます。また、何かを怖がっている時は、ヒゲをピタッと頬にくっつけて感情を表現するのです。
猫はあまり表情を表に出さないポーカーフェイスのように見えますが、そんなことはありません。
■猫のヒゲを切るとどうなるか
空気の流れや天敵の動き、暗がりでも周囲の状況を察知できる猫のヒゲ。そんな猫のヒゲを切ってしまうと、平衡感覚が鈍るためフラフラして、壁やものにぶつかりやすくなってしまいます。
人間が真っ暗闇を歩く時に不安を感じるように、猫は、ヒゲがないと暗い場所や狭いところを通る時、不安になってしまうのです。感情表現も十分にできなくなります。
ライオンやヒョウなどネコ科の動物は、狩猟活動をするため興奮したり、恐怖状態に陥ったりすることがままあります。ペットの猫以上に周囲の状況を敏感にキャッチする必要があるので顔が大きくて頬の毛も多く、ヒゲの長さや量がイエネコより随分多いという特徴があります。
こうしたネコ科動物に比べると、ペットの猫は長い家畜化の歴史の中で狩りの必要性が低下し、明るい中で暮らすうちに、ヒゲが退化しつつあると考えられます。それでもやはり、猫のヒゲが果たす役割は大きいので、病気で治療の必要がない限り、切らないようにしましょう。
■犬のヒゲは切ってもいい?
猫のヒゲは切らないほうがいいことが分かりましたが、では猫と同じく人と暮らすペットの犬はどうでしょうか?
犬のヒゲは、猫のヒゲほど高度な能力があるわけではないのですが、障害物を察知したり、顔を守ったりする役割があります。犬は鼻が前に出ている犬種が多く、口の下がよく見えません。そのため、ヒゲで何があるのか確かめたり、暗い場所でヒゲを壁に当てて障害物を確認したりしています。
犬のヒゲは猫のヒゲより短くて量も少ないのですが、生きていくのに必要な役割を果たしているため、犬のヒゲも切らないほうが望ましいのです。特に、高齢犬のヒゲは切らないようにして下さい。
人間の場合はファッションでヒゲを伸ばしたり、清潔感を表すために剃ったりしますが、犬や猫のヒゲは、生きていくために必要なものなのですね。どちらのヒゲも、治療などで切る必要がない限り、そのまま残しておきましょう。
談/大石孝雄さん
1944年京都府出身。農学博士。京都大学農学部卒業後、農林水産省に入り、畜産試験場育種部長などを歴任後2004年に退官。2006年より東京農業大学農学部教授(伴侶動物学研究室を担当)を勤める。2014年に退職、その間『ネコの動物学』(東京大学出版会)、『ネコになる本』(双葉社)などの本を執筆。これまで述べ8匹のネコを飼ってきた愛猫家、現在も夫婦でネコ4匹、小型犬2匹に囲まれて暮らす。
取材・文/わたなべあや
1964年、大阪生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。2015年からフリーランスライター。最新の医療情報からQOL(Quality of life)を高めるための予防医療情報まで幅広くお届けします。日本医学ジャーナリスト協会会員