2024年9月、気象庁は、今年の夏は、平均気温が平年と比べ1.76℃も高く、2023年と並んで最も暑い夏だったと発表。
特に人口が密集し、ヒートアイランド現象もおこった東京では、残暑も厳しかった。9月18日に最高気温35.1℃の猛暑日(35度以上)となる。気象庁によると、1875年の観測開始以来、最も遅い猛暑日(1942〈昭和17〉年9月12日)の記録を更新したという。
東京23区内の一戸建てに住む武夫さん(65歳)は「昔に比べて東京の夏は、本当に暑くなった。これに耐えきれず、定年退職後に北関東に移住したけれど、1年もしないうちに逃げ帰った。定年後の移住は私には難しかった」と語る。
喘息で1年間疎開した旧軽井沢の思い出
武夫さんは、23区内の外れで生まれ育った。両親ともに東京出身で田舎はなく、自然の中で生活することに対して憧れがあったという。
「僕が育ったのは、東京の中でも公害がひどいところ。5歳のときに喘息になってしまい、“このままでは命に関わる”ということで、母が長野の親戚の家に1年間疎開させてくれたんです」
そこは別世界だった。肺が洗われるような澄んだ空気、樹皮が真っ白に輝いている白樺の森、底が見えるほど透明な池やせせらぎに心惹かれたという。ただ、自然への強烈な憧れは、中学校時代まで。高校時代からは都会の恩恵をたっぷり受けて大人になっていく。
「外国人のミュージシャンが来ても、すぐにライブに行ける。小学校6年生のときに、レッド・ツェッペリンが初来日して、近所のお兄さんと武道館に行ったしね。両親は放任主義で、学校の成績が良ければ何も言わないのも東京っぽいでしょ」
武夫さんの父は、大手メーカーの意匠室(デザインを担当する部署)に勤務していた。母は洋裁の仕事を引き受けていたという。
「父は家でもデザインの仕事を受けていて、その姿を見るのが好きでしたね。父が烏口(デザイン用のペン)引いた線は輝いているのよ。そこにトレーシングペーパーを重ねて何か書き込み、どこかに持っていく。羽毛のほうき、円定規、字消し版などを見ると今でも父のことを思い出します」
父に憧れていたが、将来の安定を考え私立大学の経済学部に入学。卒業後は大手の農業関連機器メーカーに就職する。
「農業関連がいいと思ったのは、田舎への憧れから。“自然と接点を持っていたい”という思いが強かった。30歳で結婚して、息子2人が生まれてからは、房総や小淵沢などによく行っていました」
武夫さんが配属されたのは営業部門。地方出張もあり、仕事は楽しかった。
「僕は営業成績が良かったんですよ。30代の後半のとき東南アジアに支店を持つ計画が持ち上がり、その立ち上げの主要メンバーに抜擢されたんです」
海外で仕事をしたいという願望はあった。しかし、幼い息子と東京から出たことがない妻を帯同できるかどうか、悩んだという。
「カミさんに海外転勤の話をしたら、“私は絶対に行かない”と泣き出した。それにちょっとがっくり来ちゃって。カミさんも会社員だから“私も仕事をやめて、ついて行く準備をする”くらいは言ってくれると思っていたんだけど、甘かった」
1990年代、日本企業は上司の意向や指示に対して、部下は反論どころか異論は言えないという文化だった。会社からの命令を無視することは、その会社での未来が閉ざされることを意味していたという。
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