海外転勤の話を蹴り、転職する
「家族を取るか、会社を取るか数日間悩んで、会社を辞めることにしました。でもね、僕にとって会社は母のように育ててくれて、父のように守ってくれる存在でしたから、家族のためとはいえ苦しかった。家族分の健康保険の手続きをして、年金の切り替えをしているときに、23区内に購入した戸建てのローンが残っていることにも気づいて、足元が寒くなるような不安を味わった」
会社に一礼して敷地を出たところで、ある機器メーカーの人事部の男性に腕を掴まれたという。
「僕が辞めるという噂を聞いて、待っていたらしいんです。タクシーで会社に行ったら、役員が2人、待ち構えていた。そして“ウチに来ないか”と言う。渡りに船ってやつですよ。すぐに“行きます”と(笑)。元の会社とは、製品が異なるのでお客さんも被りませんし、営業エリアも違う。一緒に業界全体を盛り上げていこうと」
とはいえ、会社の文化は全く異なる。新しい会社は業績を伸ばすために躍起になっていた時期だった。
「展示会への出展、海外への営業開拓など、やることが多かった。待遇がいいから、責任を果たさなくてはいけないと、時には血尿を出しながら頑張った。転職後の約20年間は満員電車に揺られて通勤し、命を削るように仕事していました」
家族に対しては、「お前たちのために、会社を辞めてやったんだ」という態度が出てしまったという。新しい会社はノルマもあり、売り上げのみならず、利益率も細かく計算された。
「業績が下がるとピリピリしてくるから、まあ頑張りましたよ。僕は営業成績が良かったから、給料もボーナスも前の会社の1.5倍はもらいました。そういうこともあり、息子2人の私立の中・高・大学の学費は僕が出しました。カミさんは“当たり前”と言うけれど、共働きなのに僕だけが払ったんですよ。でも彼らは何も言わない。カミさんや息子たちに、恩着せがましい態度をとっていたんでしょうね。家族の関係は冷えていきました」
そして、60歳で定年を迎えた。コロナ禍だったが、武夫さんが慕う部下が集まり、会社の会議室でシャンパンを開けて送り出してくれたという。
定年後は、しばらくゆっくりしてから、今後の人生を考えようと思っていた。息子2人も結婚して独立している。定年退職したら、妻も態度が変わるだろうと意気揚々と帰宅したという。
【定年後、妻から「別居したい」と言われ、移住を決意する……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。