「EXPO 2025 大阪・関西万博」の開催まで300日を切り、各地にカウントダウンボードが設置された。この万博は、環境、ロボット、芸術などのプログラムがありつつ、“個”にスポットを当てた対話型での考察の場が持たれるのも特徴だ。今、注目されている、“よく生きる”ということについても「一人ひとりのウェルビーイングが共鳴する社会をどう実現するか?」というテーマが設けられている。
「よく生きる、とはよく働くことでもある」という信一さん(64歳)は、IT関連会社を定年退職したあと、都心の風呂なしアパートに住み、配達のアルバイトを掛け持ちしているが、「今が一番幸せ」と言う。
「ボーナスが立つ」という経験
信一さんは、東京近郊の国立大学の経済学部を卒業した後、システム関連会社に入った。
「父が商社に勤務しており、学生時代に何度もアメリカに行き、父の仕事を手伝っていたことがあるんです。父は女性の美容関係の商材を扱っていました」
父の仕事は、複数のブランドと契約し、大量のアイテムを日本に輸出する仕事だったという。その作業現場である出荷と確認を信一さんは手伝っていた。
「今でも“レブロン”とか“コティ”とか聞くと、あの当時の倉庫を思い出します。大量の物品を扱いつつ、いつかこれは自動化するだろう、と漠然と思ったんです」
父にそのことを話すと、「絶対にそうなる。人間はめんどくさいことを避ける習性がある」と力強く言ったという。
「父は中学もろくに出ていないのに商社で海外勤務を経験するという、かなり変わった経歴の持ち主なんです。横浜で生まれ、13歳から仕立て屋さんの下働きのような仕事をしつつ、学校に行っていたと言っていました。終戦を17歳で迎えてからは、本牧の米軍施設に出入りするようになり、そのままアメリカ関係の仕事をしていた。60歳で肺がんになって死んじゃったんですよ。ヘビースモーカーでしたからね。今はもうありませんが、ポールモールという強いタバコが好きで、いつもスパスパ吸っていた。父は英語が堪能で、女性からもモテていた。葬式に女性がたくさんやってきて、母も“お父さんはハンサムだから仕方がない”と女性たちと泣き笑いしていました」
苦労人でありつつ、人生の開拓力が強い父に「コンピューターだ」と断言されたら、息子はその方向に自信を持って進むだろう。
「当時は、とにかくメーカーが人気だったので、成績がさほど悪くない僕が、IT系に進むと聞いて、変人扱いされました。教授も、理系でもないのに大丈夫かって心配してくれてね」
当時は、紙に穴を開けてシステムを入力していた時代だ。
「“キーパンチャー”という職業があったんですよ。懐かしいですね。僕は開発と営業を担当していました。大学で金融システムを勉強していたことと、短期間にせよアメリカ生活の経験があること、日常会話の英語ができることを武器に、外資系の企業に営業に行ったんです。そこで食い込むことができ、かなりの成績をマーク。20代で“ボーナスが立つ”という経験をしたのです」
“ボーナスが立つ”とは、100万円以上の額面が支給されることを意味する。プライベートでは30歳のときに結婚して、2人の娘をもうけた。妻は社長の親戚だったという。
「今思うと、当時は会社全体が社員の結婚をお膳立てしていた。お節介上司が結婚相談所のような役割を果たしていたんです。僕は基本的に女性に興味がないというか、人と恋愛することに興味がないのですが、会社というムラ社会で、一度結婚するという流れができると抗えない。妻は出会った当時、いい人だったので結婚しました」
【役員から「マネージャーは仕事をするな!」と叱られる……次のページに続きます】