NHK『日曜討論』ほか数々のメディアに出演し、シニア世代の生き方について持論を展開するライフ&キャリア研究家の楠木新さん。人生100年時代を楽しみ尽くすためには、「定年後」だけでなく、「75歳からの生き方」も想定しておく必要があると説きます。楠木さんが10年、500人以上の高齢者に取材を重ねて見えてきた、豊かな晩年のあり方について紹介します。
本当の居場所を見つけることが幸せへの近道
80代にもなると、自分だけで行動や生活をコントロールするのが難しくなります。私自身の両親に対する介護経験からもそう思います。父親とともに神戸で薬局の商売をずっとやってきた母親は、「子どもの世話にはならず、調子が悪くなれば自らホスピスに入ってあちらの世界に行く」と常々語っていました。ところが80代になって自らをコントロールできない状態に陥ります。
胃の摘出手術を受けて何とか回復したと思ったら、今度は転倒で大腿骨(だいたいこつ)を骨折して2か月ほど入院。長期間寝込むと体が一回り小さくなって元気さも一気に失われました。50年以上続けてきた店のシャッターを開けることもできなくなりました。
そんな時、母親が子どもの頃に過ごしていた場所をいつも懐かしそうに語っていたのを思い出し、一緒に訪れてみました。震災で街並みが変わっていたからか、初めは何の反応もありませんでした。神社があったと話したので一緒に探してみると、小さな神社を発見しました。「記憶にあるのはこの神社に違いない」と説明すると、「ここだ、ここだ」という感じで母親の目が輝き出します。おぼつかない足取りで境内を歩き始め、顔つきも一変してにこやかになり、一瞬で生気が蘇りました。
やはり人の記憶のなかには、愛おしい場所がいつまでも残っているのです。施設に入った母親が「帰りたい、帰りたい」と盛んに言っていたのは、私と住んでいた実家ではなくて、祖母と3人の兄妹で過ごした昔の家だったのかもしれません。そこが母親の本当の居場所だったのでしょう。
75歳以降の人生を充実させるためには、子どもの頃の記憶、生まれ育った地域の思い出なども意味があるのではないでしょうか。神社での母親のあの嬉しそうな顔を思い出すたびに、そう思わざるを得ないのです。私自身も生まれ育った神戸のために、何か貢献できることはないかと強く感じ続けています。
終の棲家の選択肢は無限に広がっている
高齢期になると、文字通りの居場所として、どこに住むかも大きな課題です。
2020年12月の朝日新聞の記事で、「定年後どこで過ごしますか」という問いに対する、50代半ばから79歳までの男女8人の声が紹介されていました。
私は取材で定年後の住まいの変更に関しては、60代前半までと70代以降の大きく2つのパターンがあることに気がつきました。
60代前半までは、もうひと仕事というか今までの現役生活を変えることが目的で移住を考える人が多いのです。この記事でも、定年後は海の近くに住みたいと思って志摩市(三重県)に移り住んだ元高校教師の女性、趣味の陶芸をやるために早期退職して市街地から中山間地に移住した男性の話がありました。新たな仕事や趣味など、自分が主体的にやりたいことが決まっている人の移住の事例です。
もう1つは、70代以降になって体力的な衰えが始まり、日々の暮らしに便利な都市部へ引っ越すパターンです。記事でも、郊外の戸建て住宅を売却して市街地にある中古マンションに転居した男性の話が紹介されています。将来、車の運転が困難になることも考慮すると、離れたスーパーに買い物に行ったり、草刈りや庭の手入れが億劫(おっくう)になったりしたそうです。市街地の住まいでは、役所、銀行、病院、駅など生活に必要な施設がすべて徒歩圏内にあるので満足しているとのことでした。
先ほどの海の近くに移住した女性の話には続きがあり、70代になって膝が痛くなり、人工関節手術をしたことを機に、以前住んでいた市街地のマンションに戻ったと書かれていました。
私が不動産会社の営業担当者に聞くと、郊外の一戸建てから市街地のマンションに移住する70代の人の案件が全体の2割程度もあるそうです。
この他、記事では、平日は都会で過ごし、週末は約45キロ離れた田舎へ帰る生活を送っている人や、子どもがひとり立ちしたので夫婦が別々に暮らし、たまに会う生活を検討している人の話が紹介されていました。
私の周りでも、子どもが独立してから、夫婦別に住んでいる例が多くあります。夫の定年後の勤務先が関西にあって自宅のある東京に妻が住んで行き来している例や、妻が勤務する仕事場と夫が母親の介護をする場所が離れているので別々に住んでいる例、一時的に親の介護で夫が実家に戻っている例などです。
定年後に居住する場所については、田舎と都会の両方に住む、仕事や親の介護で夫婦が別々に住むという選択肢があることも柔軟に考えてみてはどうでしょうか。暖かい時期は関西に住んで、冬になれば沖縄で長期に過ごす知人夫婦もいました。どこに住むかは生活の基盤に関わることなので、年齢に応じて自分にフィットした場所を選択していくのも1つのやり方です。
記事の最後でコメントをしていた経済アナリストの森永卓郎さんは、農業を勧めていました。農業をやると筋肉量も増えて健康寿命を延ばす効果も期待できるそうです。いずれにせよ、終の棲家の選択肢は無限に広がっていると考えても良いでしょう。
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『75歳からの生き方ノート』(楠木新 著)
小学館
楠木新(くすのき・あらた)
1954年、神戸市生まれ。1979年、京都大学法学部卒業後、生命保険会社に入社。人事・労務関係を中心に経営企画、支社長などを経験する。在職中から取材・執筆活動に取り組み、多数の著書を出版する。2015年、定年退職。2018年から4年間、神戸松蔭女子学院大学教授を務める。現在は、楠木ライフ&キャリア研究所代表として、新たな生き方や働き方の取材を続けながら、執筆などに励む。著書に、25万部超えの『定年後』『定年後のお金』『転身力』(以上、中公新書)、『人事部は見ている。』(日経プレミアシリーズ)、『定年後の居場所』(朝日新書)、『自分が喜ぶように、働けばいい。』(東洋経済新報社)など多数。