高給をもらって、座っているだけの余生
社長の親戚の末席に加わり、40歳で最年少部長になった。
「現場で働いているほうが、本当に楽しくて、昇進は逃げ回っていたんですよ。営業に行ったり、企画書考えたりして、それが実現すれば、世の中が少し便利になる。いろんな人の手間、時間、ミスして叱られるというロスなどを僕たちが解放している実感があったんです。40歳で部長になっても現場の若手と営業に行こうとしたら、役員から“あなたの仕事は管理です”と再三、忠告があった。それでも無視していたら、妻の叔父である専務に呼び出され“マネージャーは仕事をするな!”と叱られたんです」
組織としては、現場の長が誰よりも仕事ができ、誰よりも仕事の量をこなしてしまうと、下は甘えて能力が身につかない。さらには、やる気が出ず辞めてしまう可能性がある。
「そうなんですってね。こっちは経験があるから、いろんなことに気づける。それでも無視していたら、成績不振の子会社に出向に。そこを数年で立て直した功績が認められて、なりたくもない執行役員にさせられてしまった」
50歳で執行役員になり、年収は1千万円をゆうに超えた。子会社に数年いた信一さんにとって、本社は浦島太郎だった。数年間で会社の規模は大きく複雑になっており、部署同士の交流もほとんど行われなくなっていた。
「会議もシーンとしていて、誰も意見を言わない。会社が自動的に動いていく感じがあり、つまんないな、と。それでも業績は上がっている。だから役員といってもすることはない。座っているだけで高給がもらえる、余生のような毎日を過ごすようになったんです」
また、社員は真面目で勤勉であり、不祥事も起こらない。「僕の仕事はもう、ない」と思い続ける日々だったという。
「仕事ばかりしていたから、家に居場所はない。妻は友達と能を習ったり、ゴルフやテニスをしたり旅行したりしているし、大学生の娘も父親に目もくれない。育児も妻に丸投げだったので当然かもしれませんが」
妻の実家が裕福なので、そこからお金はふんだんに入ってきている。娘たちは小遣いをねだりにも来ない。
座っているだけの仕事に嫌気がさし、55歳のときに会社を辞めて転職しようとしたら、妻から「そんなの許さない。私の立場はどうなるの? あなたは自分勝手すぎる!」と怒鳴られた。
「25年分の不満をわーっと話された。また、うちの妻は記憶力がいい。結婚当初、車を買ったときに妻が運転したいと言ってきた。そのとき、僕の実家に行ったらしいんですが、そのとき僕が母親に“こいつに運転をさせてやってここまで来た”という発言をしたという思い出話を皮切りに、“あなたは私に対して、させてやった”と何回言ったか覚えているのかと言われました。他にも、僕が家事をしないこと、育児に無関心なこと、髪型も気づかないことなど、1時間以上も不満をぶちまけられ、なんだか、自分がろくでもない人間だと言われているようで、いたたまれなくなったのです」
信一さんは、妻に「俺はクズ人間だから、やっぱ会社を辞めるよ」と言った。すると妻は「辞めることがクズなのよ。私の立場はどうなるの? 内助の功がないって言われるじゃない! 定年までは会社にいなさい。誰のおかげで役員になったと思っているの?」と追い討ちをかけてきた。
「そのときに、なーんだ、と。僕が今の地位にいるのは会社に貢献していたからだと思っていたけれど、妻の七光なんだと。執行役員なので定年があるから60歳まで会社にいることを決め、“いつか、ひとりになる”とSNSを始めたのです」
【SNSで楽しい人々と出会い、薄い関係を維持する……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。