少子高齢化による人口減が進んでおり、地域の文化や産業の担い手不足が懸念されている。そこで、多くの自治体はその地域に住む「定住人口」のみならず、地域づくりに関わる人も含める「関係人口」増やすための取り組みを進めている。総務省が運営する「関係人口ポータルサイト」を見ると、全国各地で農地の貸し出し、空き家の活用、ワークショップなどのイベントが行われていることがわかる。
「とはいえ、定住者がその地域に関わらなければ、関係人口を増やすことはできないと思う」と言うのは周平さん(65歳)だ。彼は5年前に都心から、生まれ育った東京郊外の実家に戻った。きっかけは、定年退職だった。
【これまでの経緯は前編で】
妻が54歳のときに、がんが見つかった
初めて恋をした人と結婚し、毎日が幸せだったという。仕事もとても充実していた。
「街づくり全般が私の仕事でした。再開発や郊外の開拓に従事していたんです。行政とチームを組み基本構想を練る。そこには、どのように駅を作り周囲に商業地を設けて、住宅を作るかということも含まれます。傲慢かもしれませんが、天地創造の神になったような気持ちになったこともありました。“こうして作った街に人がやってきて、お金や価値を生むんだ”と。その上流に立つ自分が誇らしかったですね」
業務内容も多岐に渡ったという。
「いろんなことをしましたよ。地権者さんのところに通って、土地を売ってくれるように交渉したこともあれば、関係省庁との折衝をしたこともありました。ここで感じたのは、結局は人だということ。その地域への愛が深く、住民を統率している人と話をすれば、物事がスムーズに進むんです。私はそういう人のことを、心の中で“殿”と呼んでいました。殿がいる“城下町”は住民同士のつながりがあり、祭りなどのイベントが盛んに行われ、犯罪発生率も少ないことが多いんです」
プライベートも充実していた。妻との間に一男一女をもうけ、子供たちは名門大学に進学し、それぞれのやりたいことを仕事にしたという。
「息子はプラント関連会社に就職し、娘は金融関係に進みました。就職してホッとしたところで、妻に膵臓がんが見つかったんです」
周平さんが31歳、妻が27歳で結婚し、翌年には長男が、2年後に長女が生まれてから、ずっと幸せな毎日は続いていたという。
「出勤前に、私が“定年まであと2年だね。クルーズ旅でもしようか”などと話しかけたんです。いつもなら“いいね!”と言うはずの妻が、“調子が悪いから行けないかもしれない”と。驚いて病院に行くことを勧めました。それなのに妻は医者が嫌いだと先延ばしにした。本格的に体調が悪くなり、私が病院に引っ張って行ったら、膵臓がんだと言われました。そのときはもう手遅れで、余命宣告がされました」
妻と残された時間を充実して過ごすために、周平さんは休職した。
「さまざまな高額治療を調べ、妻に勧めたのですが、妻はわかっていたみたいで、“私は治療はいいよ”って。“私はこの家で、あなたのそばで死にたい”って。訪問看護の申請をし、同居する子供達と交代で看病をし、妻の死をゆっくりと受け入れていった。妻は、病気の発覚から4か月目に亡くなりました。あのとき、自宅看護に切り替えて本当に良かった。入院させてしまっては、死を受け入れることができなかった」
【妻の思い出が染み付いた家にいるのが辛い……次のページに続きます】