「学がないから、書類を見ると頭が痛くなるの」

夫が亡くなっても、保険に入っていなかったので、生活はおぼつかない。交通事故の加害者から得た慰謝料が尽きぬうちに、新潟に帰ることにしたという。

「当時、3歳の息子は、賢くて明るかった。近所の子供がいない家から“うちの子に欲しい”と言われましたが、断って帰ることにしたんです。幼い子供が親元を離れて育ったら、何をされるかわからないことは、私がよ〜く知っていますから」

地元に帰り、親戚の家に居候しつつ、脇目も降らずに働いたという。

「保育所に子供を預け、工事現場作業員の寄宿舎で働きました。当時は、ダムや道路の建設ラッシュ。大鍋で豚汁を作ったり、ご飯を炊いたりして、必死で働いていました。そこには保険の外交員の女性も出入りしており、“こっちの方が儲かるよ”と誘われましたが、私は学がないから、体を使って働くしかない。書類を見ていると頭が痛くなるので」

女性の地位は低く、給料も安い。無我夢中で働くうちに、息子は中学3年生になる。必死で働く母の姿を見ていたからか「高校に行かずに働きたい」と言ったが、「何を言うか」と地元の県立高校に進学する。

「勉強ができて、ずっとトップだったんです。先生も“大学に行きなさい”と言うけれど、うちにはそこまでお金がない。息子もそれを望んでおらず、先生が“せめて、この会社に行きなさい”と、大企業の就職を決めてくれたんです」

その瞬間、「報われた」と思ったという。多くの人にとって、親孝行とは、子供が自立したと親が認めた瞬間にある。

「ただ、自分が酷い目にあったから、ずっとハラハラしていました。息子は東京の育成センターに行き現場の技術者として一人前になるために、働きながら学んでいました。高所の作業のほか、命の危険を伴う仕事もあり、毎日、祈るような気持ちでした」

花江さんは、集団就職した蕎麦屋を半年で就職先を飛び出したこともあり、息子も会社を辞めると思っていた。

「でも、60歳の定年まで勤めてくれたんです。これ以上の親孝行はありません。一番嬉しかったのは、15年前にある大きなオフィスビルができたとき、設備の操業式に呼んでくれたこと。息子の会社は地下のエネルギー設備関連に関わる会社で、息子はその現場リーダー。複雑な記号と設計図が貼ってあって、私にはちんぷんかんぷん。だからこそ息子はすごいと感心してしまった。開会式は家族一人まで参加できるそうだったんですが、お嫁さんじゃなくて私を呼んでくれた。あのときは、泣いちゃいましたね」

壇上で挨拶をする息子は輝いていたという。

「ああいう姿が親孝行。息子の会社は東大、早稲田、慶應卒という高学歴な人がたくさんいる。地方の県立高校卒の息子が、どれだけ苦労したか、頑張ったかと思うと、今でも涙が出てきちゃう。息子が家を出てから、私も頑張って仕事をして、お店も持てましたし、たくさんの友達もできました。やっと自由気ままな生活になれました。息子も子供はいませんが、奥さんと家を買って落ち着いて生活している。今さら同居なんてしたくないですよ。旅行に行くなんて、とんでもない」

息子は、定年退職後、功績が認められ、関連会社に部長として再雇用され、大きなプロジェクトに関わるのだという。息子がそこまで仕事に打ち込めたのは、花江さんが「家族はこうあらねば」という思い込みがなく、自立していたことではないだろうか。

今、成人しても親から自立できないことが社会問題になっている。子供部屋に住み続けた大人が引き起こす、痛ましい事件も報道されている。花江さんは働く背中を息子に見せ、現実と向き合い、世話もせず、高望みもしない。それが、結局、子供の自立を促すのだろう。息子も、目の前にあることに惜しみなく感謝する母・花江さんの存在にきっと救われたはずだ。

取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。

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