家庭のことは徹底的に受け身だった
細かいところまで詰めてくる上司に鍛えられ、結果を出し続け社内での評価も高まった。営業からマーケティング部門に異動になり、雅彦さんの戦略が業績向上に貢献。仕事が面白くなり、のめり込む。
「どこにいても、何をしても仕事のことしか考えていなかったんです。とはいえ、当時は結婚しなければならなかった。そこで、29歳のときにコンパで知り合って、なんとなく付き合うようになった女性と、30歳で入籍。地元の親からも結婚を急かされていたし、その子も“クリスマスケーキの売れ残りになってしまった。だから結婚したい”という圧をかけてきたので、観念しました」
当時、女性の結婚適齢期とされていた年齢は24歳だった。クリスマスが12月24日であることになぞらえ、25歳になると「売れ残り」という表現をされた。
「子供も2人産まれ、家も買って、典型的な日本のサラリーマンのノルマを果たしていきました。妻が欲しいと言ったものは買い、旅行に行きたいと言えば疲れた体に鞭を打って連れて行っていたのです」
雅彦さんは受け身の姿勢を貫いた。結婚から10年後、妻子は出て行ってしまった。
「僕は別れたくなかったのですが、妻は聞く耳を持たない。あれだけ結婚して欲しそうにしていた可愛い女の子は、生活に疲れて、目元が険しいおばさんになっていた。私が妻をこういう顔にしてしまったんだ、とそのときは思いました」
離婚し、家も売却して、会社の近くに引っ越したとき、孤独を感じるとともにホッとする。
「そのときに、妻と子供たちに対して“あれだけやってあげたのに”という、ものすごい怒りが湧いてきたんです。殺意のようなものもあったかもしれない。僕にとってみれば、接待ゴルフに行かず、休みを犠牲にし、稼いだお金を突っ込み、妻と子供たちに安全地帯を用意してやった。それを“あなたといると、孤独を感じる”とか“あなたは最初から私のことは好きではない”などと言って身勝手に出て行くんですから」
妻はその後、実家に帰り、父親が経営する会社に勤務。今、30代の子供の一人は医師で、もう一人は公認会計士だという。
「これもまた傲慢な言い方だと思うけれど、勉強が得意な私の血を引いたんでしょうね。離婚してからも、子供とは連絡をとっています。顔は似ているけれど、親子という感覚は薄いかも。血が繋がっている他人です。一緒に住んでいれば、“血が繋がっている愛する他人”になっていたのかもしれないけれど」
【50歳になったときに、定年後を意識し準備を始める……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。