取材・文/柿川鮎子

名犬と言われて思いつく名前は何でしょうか。渋谷駅前のハチ公、ラッシー、ボビー、リンチンチンなどが思い浮かびますが、新潟県五泉市の子どもたちに問えば、真っ先に「タマ」の名前をあげてくれるでしょう。

愛宕小学校に建立されているタマの像は子どもたちの間でも大人気です。タマ公像は新潟駅や白山公園など新潟県内だけでなく、神奈川県横須賀市にもあり、静かに私たちを見守っていますが、タマが雪崩から飼い主を二度も救った名犬であると知っている人は、意外と少ないかもしれません。

一方、ハリウッド映画にもなったハチ公は、世界中でその名を知られています。タマとハチは同じ時代に生き、ともに名犬として知られましたが、生まれてから死ぬまで、ことごとく違う境遇にありました。

ハチは大型犬の秋田のオスで、タマは小型犬の越後柴のメス。ハチは駅で亡き飼い主をひたすら待ち、タマは飼い主の命を二度も救いました。銅像にまつわるエピソードも、二頭の間では大きな違いがあります。

生まれた環境も飼い主も違う二頭の犬

ハチ公の飼い主は東京帝国大学、農学部教授の上野英三郎博士です。ジョンやエスなど複数の犬を飼育している愛犬家でした。かねてから日本犬の中で唯一の大型犬である秋田犬が欲しいと願っていました。

教え子の世間瀬千代松が秋田出身なのを知り、手に入れられないかと声を掛けます。世間瀬は同じ秋田出身の栗田礼蔵に相談して、栗田の知り合いから秋田犬を譲り受けることになりました。

一方、タマ公の飼い主は新潟県川内の雪深い里、暮坪地区笹目で農業を営む刈田吉太郎です。農閑期に食糧を得るためのヤマドリ猟に使う猟犬が欲しいと願っていました。

写真提供、忠犬タマ公委員会

新潟県五泉市で越後柴と呼ばれる子犬が生まれたのを知り、迎えることにします。たくさんのきょうだいの中でも身体の小さい犬が目に留まりました。刈田吉太郎はその犬が気に入りましたが、あまりにも小さいので「狩りには適さないのではないか」という会話をしたと伝えられています。子犬はタマと名付けられました。

飼い主を待ったハチと飼い主の命を救ったタマ

大正14(1925)年5月21日、ハチの飼い主である上野英三郎博士は授業中に倒れ、突然、帰らぬ人となってしまいました。未亡人となった八重夫人は大型犬を飼育するのが難しくなり、子犬時代に一時預けていた植木職人の小林菊三郎に譲ります。

たった一年半ほどの短い時間しか一緒にいられなかったものの、ハチは上野博士が大好きでした。博士を求めて、匂いのする倉庫や、博士が帰ってくる渋谷駅を歩き回ります。渋谷駅をうろつく秋田犬の姿を見たのが、日本犬保存会会長の斉藤弘吉でした。亡き飼い主を待つハチについての記事を新聞社に投稿して、ハチは忠犬として一躍有名になりました。

昭和9(1937)年、2月5日、5歳になったタマと刈田吉太郎はヤマドリ猟に出かけます。山中で突然、大きな音とともに雪崩に襲われ、全員が雪に埋もれてしまいました。身体の軽いタマは雪から這い出て、飼い主のいた場所を必死で探し、雪を掘り起こして主人を救い出したのです。

小柄なタマが必死でかいた雪面は、タマの血で赤く染まりました。仲間の一人は命を落としてしまいますが、タマの活躍で刈田吉太郎は無事、救出されました。遭難から飼い主を救った活躍ぶりが広まり、こちらも名犬としてその名が広まりました。

ハチ公の銅像をめぐる対立

上野教授を待つハチのエピソードは、戦前の忠孝思想とともに話題になり、日本犬保存会は彫塑家の安藤照(あんどうてる、1892~1945年)に依頼して、ハチの像を建立することになりました。しかしこの時、日本犬保存会とは別の流れで、ハチ公像の建立を計画した人物がいました。

その人物は仏師で彫刻家の大内青圃(おおうちせいほ、1898~1981年)にハチ公像の作成を依頼し、資金集めの絵葉書を販売しました。日本犬保存会はこれを阻止するために、ハチ公像の作成を急ピッチで進め、昭和9(1934)年4月21日に完成させました。除幕式にはハチも立ち会いましたが、そのわずか1年後の昭和10(1935)年3月10日、ハチはフィラリア症で亡くなります。

二度目の遭難から飼い主を救ったタマ

ハチが亡くなった翌年の昭和11(1936)年、1月10日、タマと刈田吉太郎は猟に出て、ふたたび雪崩に巻き込まれました。タマは雪に埋もれた仲間全員を探し出し、見事に救い出しました。

タマは前回の遭難事件で、仲間の一人が亡くなって飼い主が落胆している姿を見ていました。次は全員を救出すると決意していたかのようです。二度も飼い主の命を救った名犬として、世界中に報道されました。

雪崩から二度も主人を救ったタマに感動した地元の川内小学校の渡辺信一郎校長は、タマの名を長く地元に留めようと、地域の人々に声をかけて銅像を建立します。

昭和12(1937)年11月、旧川内小学校(現在は愛宕小学校に移転)にタマ公像が完成しました。タマはハチに次いで、生きている間に銅像が立った犬の第二号となりました。タマはその後も大好きなご主人と仲睦まじく暮らし、昭和15(1940)年に天寿を全うしました。

軍事物資として供出されたハチ公像と守られたタマ公像

二頭の犬の銅像は戦争による供出でも、その扱いが大きく分かれることとなりました。ハチ公像は軍事物資として供出され、一度は保管することが決まったものの、昭和20(1945)年、終戦を告げる玉音放送の前日の8月14日に、鉄道省浜松工機部で溶解されてしまうのです。溶解されたハチ公像は機関車の部品となりました。

一方、タマ公像も白山公園に建立されたものは供出されてしまいます。しかし、川内小学校の像は守られました。渡辺信一郎校長の「将来の子供たちのためにタマ公の偉業を長く伝えたい」という願いから、命がけでタマ公像を隠したのです。

愛宕小学校で子どもたちを見守るタマ公

重たい銅像は渡辺校長一人で動かせるものではありません。協力者もいたはずですが、人々はタマと渡辺校長のために沈黙を守り、昭和37(1962)年に発見されるまで、校内でタマ公の像は眠り続けました。

ともに飼い主を愛し抜いた二頭の犬

ハチが亡くなった飼い主を待っていた犬だったせいか、どこか孤独な影が付きまといます。一方で、タマのエピソードには、ハチに感じる哀切がなく、明るく前向きで、あきらめない強さを感じます。また、死ぬまで飼い主と過ごせたせいか、愛に溢れています。

片やあきらめずに渋谷駅で待ち続け、片やわが身を顧みず雪崩から命を救った二頭の犬。生きている間も、銅像になっても、それぞれの境遇は異なりましたが、「飼い主を愛した犬」という点では共通点がありました。愛された側の人間は、二頭の犬を忘れず、未来へと語り継がねばなりません。

ハチとタマ、数奇な二頭の生涯については、忠犬タマ公委員会(委員長伊藤和幸氏、URL:https://kame-net.wixsite.com/tamakou/cv)が作成した一読(わんどっく)「ハチ公とタマ公が解るお話」でも詳しく紹介されています。

文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。

 

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