取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
「“ごんげん蒸し”が上手にできれば、一日気分がいい」という歌舞伎役者の健康は、自らが腕を振るう朝食が支えている。
【中村歌六さんの定番・朝めし自慢】
物心つくかつかない頃から、歌舞伎座(東京・銀座)が学びと遊びの場であった。
「祖父に手を引かれて毎日、旧歌舞伎座に通いました。楽屋で化粧や着付けを見たり、奈落を探検したり、かくれんぼをしたり。悪戯書きをした場所も覚えていました」
と、歌六さんは当時を懐かしむ。
歌舞伎の名門、播磨屋の家に生まれた。祖父は女形の名優・三世中村時蔵、曾祖父は上方生まれの三世歌六。昭和30年、5歳で初舞台。小川進一少年は、四代目中村米吉となった。だが、父の二世歌昇(追贈・四世中村歌六)は体を悪くし、若くして歌舞伎を廃業。歌六さんが22歳の時に亡くなった。
後ろ盾を失くした歌六さんを、先輩役者が支えてくれた。
「特に十七代目の中村屋のおじさん(大叔父の勘三郎)が、“お前を一人前にしないと貴智雄(父の本名)に顔向けができねえ。一人前になれねぇんなら死んでくれ”と、指導してくださいました」
歌舞伎界の陰の立役者といわれた祖母の小川ひな、叔父の俳優・萬屋錦之介や中村嘉葎雄の存在も大きかった。全く性格の異なるふたりの叔父の引き出しから、多くを盗ませてもらったという。
昭和56年、五代目中村歌六を襲名。口跡の良さと歯切れのいい科白、役の性根を押さえた陰翳ある演技が舞台に奥行きをもたらす。読売演劇大賞優秀男優賞、芸術選奨文部科学大臣賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など、数々の受賞歴がその確かな演技を物語っていよう。
小川家伝統の“ごんげん蒸し”
歌六さんの朝は早い。午前5時頃に目覚め、寝床で朝食の献立を考えることから一日が始まる。
「60代に入って早起きになり、時間があるので朝食は僕が作るようになりました。基本的には和食の献立で、ちょっと自慢できるのが卵料理。小川家伝統のごんげん蒸しや、オムレツが上手にできた日は、一日中気持ちがいいですね」
魚も自分で捌く。神奈川県・油壷に叔父・萬屋錦之介の別荘があり、度々遊びに行くうちに自然と下ろし方を覚えたという。
家族揃って、食いしん坊を自認。朝食といえども、多種類あるほうが嬉しいと、恵子夫人手作りの常備菜も並ぶ。「与えられたお役を真摯に務めたい」という歌六さんの健康を、朝食が支えている。
敵役や老け役を演じて当代随一、播磨屋の芸を伝承する
声高に芸談を披露することはないが、歌六さんは現代の歌舞伎界を代表する立役のひとりであろう。主役を演じるわけではないが、主役に対峙する重要で大きな敵役や老け役を演じて、この人の右に出る者はいまい。
さて、9月の歌舞伎座は「秀山祭」である。「秀山」とは初代中村吉右衛門の俳名で、初代の生誕平成18年に始まったという。
「今年の秀山祭は、曾祖父・三世中村歌六100回忌の追善興行でもあります。感慨深いですね」
名優の誉れ高い三世歌六は、初代吉右衛門、三代目時蔵、十七代目勘三郎の父である。その歌六の当たり役のひとつが、『伊賀越道中双六・沼津』の雲助平作だ。
「その昔は、初代吉右衛門のおじさまの呉服屋十兵衛に曾祖父・歌六の平作でした。今年の秀山祭の昼の部では、吉右衛門にいさんと僕とでこの播磨屋ゆかりの演目を、夜の部では播磨屋の家の芸でもある『松浦の太鼓』の松浦侯を、初役にて務めさせていただきます」
播磨屋の芸を伝承しつつ、新しい「歌六」を模索する。
取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
※この記事は『サライ』本誌2019年9月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。