◎No.11:正岡子規の学帽
文/矢島裕紀彦
たったの35年にも満たない一生。しかも、そのうち5分の1余りを、東京・根岸の借家の病床の上で送った。脊椎カリエスにより、寝返りさえもままならなかったのである。
そんな境涯にあって、だが、正岡子規は、写生の精神を打ち出し俳壇や歌壇に大きな影響を投げかけていった。とくに俳壇史の上で、巨人中の巨人であったと言っていい。
もともとは伊予松山の生まれ。初めて東京の土を踏んだのは、明治16年(1883)。数え17歳の折。太政大臣になる--そんな若く微笑ましい志を抱いての上京であった。その後、共立学校、大学予備門などを経て、明治23年(1890)、帝国大学文科大学哲学科に入学。翌年には国文科へ転入する。政治家から哲学者、そして文学志望へと、子規の思いは変遷していったのである。
帝国大学文科大学時代に子規がかぶった学帽は、愛媛県松山市の子規記念博物館に現存する。色調は黒の艶消し。革の鍔(つば)がついた布製。「大學」の徽章(きしょう)は、黄銅色の輝きを見せる。子規の若々しい心の昂(たかぶ)り、青年の意気を象徴するような凛々しい容(かたち)であった。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。
写真/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。雑誌のグラビア、書籍の表紙などエディトリアルを中心に従事する。
※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。