文/鈴木拓也
喜連川藩は、今の栃木県さくら市喜連川にあった日本最小の藩で、たった五千石の「貧乏」藩でもあった。それでいながら、清和源氏の流れを汲む足利氏の直系ということで、徳川家から破格の扱いを受け、家格は十万石相当、参勤交代など諸役は免除され、御所の称号を許されていた。喜連川藩主だけが、なみいる譜代大名クラスをおさえ「御所様」と呼ばれていたのである。
しかし、家格は高くても、いかんせん五千石の規模なので、藩の台所事情は常に火の車であった。それを代々の御所様は、知力の限りを尽くして乗り切ってきたのである。
こうした、喜連川の代々藩主の金策をつづったノンフィクションが、今回紹介する『貧乏大名“やりくり”物語』(山下昌也著、講談社)である。
例えば、基幹産業であった宿場を徹底的に盛り立てるべく、参勤交代で通過する大名行列(大事なお得意様である)を藩の家中が全員で歓迎した。ある年などは、仙台候が御所様に挨拶に伺った際は、家老以下、家中の士がそろって追手門で出向かえたという(家臣は薄給で、仙台候の土産品を期待したというもあった)。
飢饉があって、奥州街道の宿場があらかた米不足に陥り、飯を宿泊客に出せない事態になったときも、唯一喜連川藩のみが、米飯を出せたというが、大事なお客様を困らせないという信念の現れである。
一方で、小藩ならではの、せせこましい手法でも財源を確保している。例えば、「入酒法度」。つまり他藩から酒は購入せず、宿場町や茶屋は全て、駿河屋という藩内の酒造家から調達すべしという法令があった。独占販売のおかげで駿河屋は大いに潤ったが、その代り冥加金という形で藩に支払いが義務付けられた。
また、世襲家業で代々続くのがふつうであった本陣は、喜連川ではなぜか名義がころころ変わった。これは、書類不備といった些細なことを理由に経営権を召し上げ、競争入札によって新たな経営者を決めたからである。そして落札者は冥加金を払うのである。
このように商人には厳しい処遇を行い、家臣らを薄給で我慢させることはあっても、絶対に領民を困窮させない、というのが御所様の絶対方針であった。不作が続くと、備蓄米を放出し、金蔵の金を分け与えた。富裕な者に米を出させ、貧窮した者に与えた。「領民の困窮は、自分の罪」という考えを明治維新まで貫き通し、一揆のような不穏の事態を一度も招かなかったというから、さすがである。
本書は、数少ない強みを徹底的に生かす、下位の者をいたわる、頭に汗をかいて様々な策を練って将来に備える、といった現代人も見習うべき教訓が散りばめられたノウハウ書としての側面もある。江戸の歴史ファンだけでなく、小企業の運営に携わる人にとっても得るところは大きいだろう。
【今日の一冊】
『貧乏大名“やりくり”物語』
(山下昌也著、講談社)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062816878
文/鈴木拓也
2016年に札幌の翻訳会社役員を退任後、函館へ移住しフリーライター兼翻訳者となる。江戸時代の随筆と現代ミステリ小説をこよなく愛する、健康オタクにして旅好き。