今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「朝二合、昼二合、夜二合、合計一升」
--若山牧水

若山牧水は、旅と酒の歌人として有名だ。次のような歌は、多くの人の耳の底にあるのではないだろうか。

「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしずかに飲むべかりけり」

明治18年(1885)宮崎の生まれ。早稲田大学の同級には、北原白秋、土岐善麿らがいた。

牧水の旅支度は、わらじばきに着慣れた和服の尻端折り。北へ南へと旅して歩く。送り出す牧水の妻・喜志子は、こんな歌を詠む。

「汝(な)が夫(つま)は家にはおくな旅にあれば命光ると人の言へども」

いそいそと旅立つ夫を見送ったあとの待つ身の切なさが、そこはかとなく匂い立っている。

静岡県沼津市の若山牧水記念館を何度か訪れたことがある。そこで私の目を引いたのは、牧水遺愛の酒器(盃と徳利)だった。

盃は白地に藍で柳と蝙蝠(こうもり)を配した絵模様。作者や産地をとりたてて語るべき高級品ではない。日本全国くまなく歩いた旅の果て、愛して移り住んだ沼津の千本松原。その自邸近くの瀬戸物屋で買い求めたものらしかった。徳利に至っては、関西の蔵元が景品として出したもの。しかし、不思議に蝙蝠の盃と色合いがぴたりと馴染む。

そして、掲出のことば。小学生の算数なら計算が合わないが、牧水はこう嘯(うそぶ)く。

「枡めがちがうといい給うな、この液体の体質だ」

すなわち、朝昼晩2合ずつ計6合となるところ、ついつい、もう1本もう1本のお銚子の追加があって1日1升になってしまうというわけ。酒呑み特有の算盤(そろばん)勘定。だが、「さもありなん」と頷く御仁も、案外少なくないのではないですかな。

牧水は瀕死の床にあっても酒は欠かさなかった。長年の酒で体内に浸潤したアルコールのためか、酷暑の中2日間を経ても、遺体は少しも腐乱するところがなかったという。

さて、先に紹介した盃と徳利は、牧水とともに昇天させるべく、一度は亡骸とともに荼毘に付された。ところが、焼き崩れるどころか従前に増して藍の色を深くし、主の代わって喜怒哀楽の渦巻く現世に甦ったのだそうな。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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