今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「家の美は心の美をつくる」
--川口松太郎

第1回の直木賞受賞作家である川口松太郎は、明治32年(1899)東京・浅草の生まれ。貧乏のため進学もままならず、質屋の小僧をはじめ、苦労を重ねた。『鶴八鶴次郎』などの作品で直木賞を受賞したのは昭和10年(1935)。翌年から婦人雑誌に連載した『愛染かつら』で流行作家となった。

川口はゴルフ好きだった。まだゴルフ人口が少ない戦前から、小金井カントリーの会員となってゴルフをはじめた。ところが初め、勝手がよくわからず、一番ティーグラウンドで素振りをして芝を削りとってしまいひどく叱責を受けた。以来、ゴルフのエチケットやマナーを徹底的に勉強し、頭の中に叩き込んだ。

戦後、作家の丹羽文雄がゴルフに打ち込みシングルプレーヤーとなり、周囲の希望で丹羽の指導による文壇ゴルフ教室が開校される運びとなった。そのときゴルフのマナーを教えるための「道徳科教授」に迎えられたのが川口松太郎だった。

川口は面倒見がよく仕切り屋であったから、他の場面でもその「道徳的指導力」は発揮された。たとえば、古くからの友人の挿絵画家・岩田専太郎の告別式の折の、こんな逸話が残る。

美人画を得意としたことと関係するのかどうか、岩田には複数の愛人がいた。それが告別式の席順でもめている。別段だまされていたわけでもなく、他の女の存在は互いに知っているのだが、いざ同席するとなると競争心もあり、簡単ではないのである。

そこで川口松太郎の出番。「順番はどうなってるんだ。お前が一番目か、じゃあそこ。二番目は、そう、二番目の席に座れ。だけど待てよ、最後に看取ったのは五番目か、それじゃあやっぱりお前が先頭だな」と整理してやる。

すると、そこに本妻が現れ、私はどうするんですか、と問う。「そうだ、お前さんを忘れてた」と苦笑したあと、川口はぴしゃりと宣言した。

「先頭は看取った人、最後は本妻が締める」

かくして、式は粛々と滞りなく進行していったという。

川口松太郎は、東京・文京区の高級マンション「川口アパートメント」のオーナーでもあった。作詞家の安井かずみも住んでいたというお洒落なマンションである。その玄関ロビーに、川口はさりげなく一書を掲げていた。それが掲出のことば。

そこには、若い頃に苦労を重ねた川口の、住まいに対する憧れや祈りのようなものが込められていたように感じられる。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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