今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」
--坪内逍遥
上に掲げたのは、坪内逍遥が明治18年(1885)から翌年にかけて発表した評論『小説神髄』の中に綴ったことば。文学の目指すところを人間内面の追究におき、その方法として、写実主義を提唱したのである。
明治という新しい時代にふさわしい新しい文学への流れは、この書を起点としてはじまっていく。この論を具体化する作品として、坪内逍遥の『当世書生気質』や二葉亭四迷の『浮雲』などが生み出されていくのだ。『吾輩は猫である』をはじめとする漱石作品も、こうした流れの延長線上にあって、大きく開花し、日本の近代文学に豊穣をもたらしていく。
坪内逍遥は東京専門学校(のちの早稲田大学)に文学部を設立したことでも知られる。夏目漱石も帝国大学(現・東大)在学中に、乞われて、東京専門学校の英文科の講師を務めている。
『当世書生気質』はまた、ひょんなところで、ひょんな人物に大きな影響を与えていた。野口英世が、たまたまこの本手にしたのだ。そのまま読み進めていくと、野々口清作という医学生が登場し、将来を嘱望される秀才だったのに、ふとしたきっかけから手のつけられぬ遊蕩児となって破綻していくさまが描かれていた。
野口はこれを読んで衝撃を受けた。
両親が彼に与えた名は清作(野口清作)で、彼と物語中の人物は、名前も行動も酷似していた。まるで自分のことをモデルにしているのではないかとさえ感じた。
彼、野口清作はこの直後、自戒の念とともに自分の名を「英世」に改め、野口英世となったのである。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。