文/濱田浩一郎

竹中半兵衛は黒田官兵衛が持つ秀吉の書状をなぜ破り捨てた?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」において羽柴秀吉に仕えた「軍師」竹中半兵衛重治を演じるのは菅田将暉さんです。一方、これまた秀吉の軍師として名高い武将・黒田官兵衛は倉悠貴さんが演じると発表されています。秀吉を支えた2人の「軍師」がどのように描かれていくのか、楽しみですが、この著名な2人の「軍師」にまつわる逸話が『名将言行録』という書物に採録されています。
『名将言行録』とは、幕末の館林藩士・岡谷繁実が約15年もの歳月をかけて完成させた武将の言行録です。厳密な史料批判を経て編まれた書物というわけではなく、信頼性の乏しい逸話が掲載されていることもあり「俗書」と評されることもあります。しかし、そのなかにおいてユニークな逸話が掲載されていることは事実です。それでは、同書には竹中半兵衛・黒田官兵衛孝高のどのようなエピソードが書かれているのでしょうか。
同書の「竹中重治」の項目には、黒田官兵衛のことについても触れられており、そこには「黒田孝高、秀吉と交り深し」と書かれております。つまり黒田官兵衛は秀吉と親交していたというのです。秀吉もまた官兵衛に「そなたのことは弟の小一郎(羽柴秀長)同然に心安く思っている」と書状(天正6年7月23日付)に書いておりました。これは官兵衛を籠絡するための「甘言」といえるのかもしれませんが『名将言行録』には、秀吉は官兵衛に更にある約束をしていたとあります。秀吉は官兵衛に「誓文」(起請文)を書いて「他日、知行を与えよう」と約束していたというのです。ところが同書によると、秀吉はその後、出世したにもかかわらず、官兵衛との約束を守らなかったとあります。当然、官兵衛はそれを不満に感じます。事あるごとに不満を口にしたようです。同書には半兵衛と官兵衛は「友」と書かれておりますが、官兵衛は「友」の半兵衛にも、秀吉が知行を与えてくれないと不平を漏らしたとのこと。
それは半兵衛が官兵衛のもとを訪ねた時のことであったようです。官兵衛の秀吉への不平を聞いた半兵衛は尋ねます。「その誓文とはどのようなものなのか?」と。官兵衛はその言を受けて、これこれこのようなものだと説明を加えつつ、誓文を取り出すのでした。半兵衛はその誓文を見終わると、驚きの行動に出ます。何と無言でその誓文を引き裂き、火中に投げ捨てたのです。半兵衛の突然の振る舞いに官兵衛は驚きました。驚く官兵衛を前にして半兵衛はこう述べたそうです。「このような誓文があるから、不満も起こるし、勤めも不十分となるのだ。それは結局は身(官兵衛)のためにならない」と。
この半兵衛の言葉を聞いて、官兵衛は改心し、勉励するようになったとのこと。そしてその後、出世していったと同書にはあります。
半兵衛は自身が秀吉から貰った書状をもなぜ捨てた?
また同書には、半兵衛は秀吉から貰った自筆の「懇書」(心のこもった書状)を裂き捨てたとのエピソードも記されています。なぜ、半兵衛はそのようなことをしたのでしょうか。
半兵衛は言います。「このようなものを残しておいては、子孫も自身の身の程を弁えずに、父にはこのような懇切な書状を与えたのに…、などと羨み、恨むことがあるかもしれない」と。つまり、このような秀吉の書状を後々まで残しておいては、自分の子孫が増長することがあるかもしれないし、思わぬ不和の要因にもなるというのです。
黒田官兵衛は「策士」「陰謀家」のイメージがありますが、半兵衛はそれと比べて、余りそうしたイメージがありません。これまで述べてきた逸話の影響もあるのかもしれませんが、頭は切れるが、道徳家で自重、慎重の人とのイメージもあります。
『名将言行録』によると半兵衛は常に「諸士」に対し、次のように語っていたそうです。「自分の屋敷の軒下を出る時は、すでに敵がいて己を狙っていると心得ねばならん。迂闊に軒下を離れるのは、甚だ粗略である」と。「男は敷居を跨げば七人の敵あり」(男というのは家から社会に出れば、様々な多くの敵がいるという意味)とのことわざがありますが、それと同じ、半兵衛の精神を表す言葉です。
文/濱田浩一郎(はまだ・こういちろう)

兵庫県相生市出身。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師、大阪観光大学観光学研究所客員研究員を歴任。現在、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。著書『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『あの名将たちの狂気の謎』(中経の文庫)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『中学生からの超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)その他多数。











