はじめに-大関和とはどのような人物だったのか
連続テレビ小説第114作『風、薫る』で注目される人物の一人が、主人公・一ノ瀬りん(演:見上愛)のモチーフとなる大関和(おおぜき・ちか)です。大関和は、日本で最も早い時期に正規の訓練を受けた看護師(トレインドナース)の一人であり、近代看護の発展に大きく尽くした先駆者。
看護の技術を磨くだけでなく、後進の育成に力を注ぎ、さらに感染症対策や公衆衛生の普及にも取り組んだ和。その歩みを知ると、近代日本において「看護」がどのように職業として形づくられていったのかが、いっそう鮮明に見えてきます。
『風、薫る』をより深く味わうためにも、まずは大関和が生きた時代と、その生涯を辿ってみましょう。

大関和が生きた時代
大関和が生まれたのは、安政5年(1858)。幕末の動乱が続く時代でした。その後、日本は明治維新を経て、政治も社会も大きく変わっていきます。西洋の学問や技術が取り入れられ、医療の分野でも新しい制度や知識が広まっていきました。
しかし当時の日本では、現在のような意味での「看護師」はまだ十分に確立していませんでした。病人の世話は家族や住み込みの世話役が担うことが多く、専門的な教育を受けた看護師はごく少数だったのです。
そうした中で、近代看護の礎となったのが、ナイチンゲールの考え方を取り入れた看護教育でした。清潔、換気、衛生管理を重んじる近代看護は、コレラや赤痢などの感染症が恐れられた時代にあって、非常に重要な意味を持っていました。
大関和は、まさにその新しい看護を学び、実践し、広めた人物だったのです。
大関和の生涯と主な出来事
大関和は安政5年(1858)に生まれ、昭和7年(1932)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
幕末の黒羽に生まれる
大関和は、安政5年(1858)4月11日、下野国(現在の栃木県)に生まれました。父は黒羽藩の重臣・大関弾右衛門増虎(おおぜき・だんえもんますとら)、母はテツで、和はその次女でした。幕末の藩政を支えた家に生まれたことがわかります。
父の増虎は、元治元年(1864)に家老に就任するなど活躍しましたが、藩主の死後に辞職しています。時代が大きく揺れ動く中で、大関家もまた変化の波にさらされていたのでしょう。
結婚、離婚、そして新しい道へ
和は明治9年(1876)に渡辺豊綱(わたなべ・とよつな)と結婚し、翌年に長男六郎、明治13年(1880)に長女シンをもうけました。しかし、その後離婚しています。
2人の子を抱えて新しい人生を歩まなければならなくなった和にとって、上京は大きな転機となりました。明治14年(1881)に東京へ出た和は、英語を学ぶため正美英学塾に通います。その中で知遇を得た植村正久牧師の勧めにより、キリスト教に入信し、やがて看護の道へ進むことになります。
人生の苦境のただ中で新たな学びに向かったことは、大関和という人物の強さをよく示しています。
桜井女学校附属看護婦養成所で学ぶ
明治19年(1886)11月、和は桜井女学校附属看護婦養成所に入学しました。これは日本でも早い時期の本格的な看護教育機関で、和はその第一期生の一人でした。同級生には、のちに看護界で活躍する鈴木雅(すずき・まさ)もいました。

ここで和は、ナイチンゲール看護学校で学んだアグネス・ベッチの直接の指導を受けています。こうした学びを通じて、和は近代看護の理念と技術を身につけていきました。
単に患者の身の回りの世話をするのではなく、衛生、清潔、換気、観察を重んじる看護。和が学んだのは、そうした新しい時代の看護でした。
帝国大学医科大学附属病院で看護の第一線に立つ
明治21年(1888)10月26日、看護婦養成所を卒業した和は、そのまま帝国大学医科大学第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)で、外科の看病婦取締、いわば看護婦長に就任しました。
当時、正規の訓練を受けた看護婦自体がまだ少ない時代に、帝国大学附属病院で責任ある立場を担ったことは、和が高く評価されていた証といえるでしょう。
ただ、その勤務は長くは続かず、明治23年(1890)頃には退職します。しかし、これは和の歩みの終わりではなく、むしろ新たな展開の始まりでした。
新潟・高田で伝道と看護教育に尽くす
明治23年(1890)10月、和は新潟県高田の高田女学校に舎監兼伝道師として赴任しました。ここでは伝道活動に加え、廃娼(はいしょう)運動にも熱心に取り組んだと伝えられます。
その翌年、明治24年(1891)には知命堂病院の初代看護婦長となり、看護業務と看護婦養成に携わりました。知命堂病院では、病院開院後まもなく看護教育にも関わり、解剖や教科教育などにも力を尽くしたとされます。
さらに明治27年(1894)に産婆看護婦養成所が設けられると、和もその養成事業に協力しました。看護の現場だけでなく、教育者としても役割を果たしていたことがここからよくわかります。
明治29年(1896)3月頃までに和は東京へ戻りますが、この高田時代は、和が地方に近代看護の理念を根づかせた重要な時期でした。
東京で看護婦会を率い、派出看護の質を高める
東京に戻った和は、東京看護婦会講習所の講師を務めるなど、再び看護教育の前線に立ちました。明治29年(1896)には、和は鈴木雅の始めた派出看護婦会の会長となります。
派出看護婦とは、患者の家などに出向いて看護を行う看護婦のこと。当時、病院だけでなく家庭での看護も重要であり、その質の向上は大きな課題でした。その後、和は明治32年(1899)に著書『派出看護婦心得』を刊行しています。
明治34年(1901)には東京看護婦会会頭に就任。さらに明治42年(1909)11月3日には大関看護婦会を設立し、大関看護婦講習所も開きました。キリスト教精神に基づく人格教育と、実際の看護技術の双方を重んじ、後進の育成に励んだのです。
また、明治44年(1911)には大日本看護婦協会東京組合長にも就任しました。看護を一時の働き口ではなく、専門性と社会的意義を持つ職業として育てていこうとした和の姿勢がうかがえます。
感染症対策と看護の普及に力を注ぐ
大関和の功績として見落とせないのが、感染症対策と公衆衛生の普及です。
コレラや赤痢などが人々を脅かしていた時代、和はナイチンゲール方式に基づき、排せつ物の適切な処理、こまめな清掃と換気、患者の身体や衣服を清潔に保つことを徹底しました。今日では基本とされる衛生管理を、当時の現場で広めることには、大きな意義がありました。
明治41年(1908)には『実地看護法』を刊行。看護の実践方法や看護婦の心得を広く伝え、看護という仕事の重要性を社会に知らせる役割も果たしました。
現場で働き、教え、さらに書いて伝える…和は、看護の普及者でもあったのです。

婦人運動にも尽くした晩年
和は、看護界だけにとどまらず、日本キリスト教婦人矯風会の活動にも力を尽くしました。廃娼運動、禁酒運動、婦人参政権運動など、女性の地位向上と社会改革をめざす運動に関わったことでも知られます。
近代日本において、職業人として働きながら、社会運動にも参加する女性はまだ多くありませんでした。その意味でも、大関和は時代を一歩先んじた存在だったといえるでしょう。
晩年は脳溢血のため、2年間にわたって病床で過ごしました。そして昭和7年(1932)5月22日、75歳でその生涯を閉じます。
現在では、「明治のナイチンゲール」と呼ばれることもあります。しかしそれは単なる美称ではなく、日本の近代看護を実践と教育の両面から支えた歩みの積み重ねによるものだったといえるでしょう。
まとめ
大関和は、幕末に生まれ、明治から昭和初期にかけて活躍した近代看護の先駆者でした。正規の看護教育を受けた初期の看護師の一人として、看護と教育に尽力し、後進の育成にもあたりました。
さらに、感染症対策や公衆衛生の普及、看護知識の出版による啓発、婦人運動への参加など、その活動はきわめて幅広いものでした。
『風、薫る』を見るとき、和のこうした実像を知っていれば、ドラマの登場人物たちが何を志し、どのような困難の中で新しい時代を切り開こうとしていたのか、より深く感じ取ることができるのではないでしょうか。
『風、薫る』の物語を楽しみながら、その背後にある近代日本の歩みにも思いを重ねてみたくなります。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
大田原市ホームページ
上越市ホームページ











