はじめに-筒井順慶とはどのような人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する筒井順慶(つつい・じゅんけい、演:永沼 伊久也)は、戦国時代の大和国(現在の奈良県)を代表する武将の一人です。幼くして家督を継ぎ、松永久秀(演:竹中直人)との長い抗争をくぐり抜け、やがて織田信長(演:小栗旬)のもとで大和一国を任されるまでになりました。

一般には「洞ヶ峠(ほらがとうげ)で日和見をした人物」という印象で語られることもありますが、近年この見方は後世の潤色を多く含むことも知られています。この記事では、順慶が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。

『豊臣兄弟!』では、信長に反旗を翻した松永久秀に代わって大和国を任された人物として描かれます。

筒井順慶
筒井順慶

筒井順慶が生きた時代

筒井順慶が生きたのは、畿内の支配秩序が大きく揺れ、三好政権、松永久秀、織田信長、羽柴秀吉と、権力の担い手がめまぐるしく入れ替わっていく時代でした。とりわけ大和は、寺社勢力、国衆、外部から進出してくる武将たちの思惑が交錯する、きわめて不安定な土地でした。

順慶の家である筒井氏は、興福寺官符衆徒として大和で大きな勢力を持っていました。しかし永禄2年(1559)、松永久秀が大和へ進出すると、順慶は本拠を追われる苦しい立場に置かれます。その後も長く松永氏との争いが続きました。

そうした中で順慶は、三好三人衆と結んだり、織田信長に接近したりしながら勢力を保ち、ついには大和一国を預けられるまでになります。大和を守り抜こうとするその歩みは、まさに戦国大名の苦闘そのものでした。

筒井順慶の生涯と主な出来事

筒井順慶の生年は天文18年(1549)、天正12年(1584)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

2歳で家督を継いだ名門の若き当主

筒井順慶は天文18年(1549)に生まれました。幼名は藤勝です。父の筒井順昭(つつい・じゅんしょう)は、大和の国衆のなかでも有力な存在で、ほぼ大和を制圧していたとされますが、天文19年(1550)に病没しました。そのため順慶は、わずか2歳で家督を継ぐことになります。

もちろん幼少の順慶がすぐに政務を担えたわけではなく、母の大方殿や、一族の福住宗職(ふくずみ・むねもと)が後見しました。

この時点で順慶の人生は、すでに平坦ではありませんでした。名門の家督を継ぎながらも、実際には周囲の支えのうえで生き延びなければならない、不安定な出発だったのです。

松永久秀の侵攻で本拠を追われる

順慶の若年期に最大の脅威となったのが、松永久秀でした。永禄2年(1559)、松永久秀・久通父子が大和へ進出すると、信貴山(しぎさん)城、ついで多聞(たもん)城を築いて大和の大半を制圧します。これにより順慶は筒井城を捨て、東山内や河内、あるいは堺方面へ逃れることになりました。

この時期、順慶は山辺・宇陀両郡の山地や和泉堺付近に流寓しました。名門の当主でありながら、落ち延びるほかない立場に置かれたわけです。

ただ、この苦境がそのまま順慶の終わりにはなりませんでした。やがて成長した順慶は、自ら反撃に転じていきます。

三好三人衆と結び、松永氏に対抗する

成人した順慶は藤政と改称し、松永久秀への反撃を始めます。反久秀の三好三人衆と提携したこともあって、永禄9年(1566)には奈良へ攻め上るまでになりました。この年、順慶は興福寺成身院で出家し、陽舜房順慶と称します。

順慶は、武将であると同時に、興福寺官符衆徒としての性格も持っていました。これは大和の有力武士として、寺社と深く結びついた独特の立場です。順慶の行動を理解するには、この宗教的・地域的な基盤も見落とせません。

もっとも、戦いの形勢はなお厳しく、本拠筒井を失うなど総じて不利でした。それでも順慶は、松永久秀と小規模な戦闘を繰り返しながら勢力回復を図り続けました。

辰市城の戦いと信長への接近

順慶の立場が大きく好転するのは、元亀2年(1571)以降です。松永久秀が織田信長に背く動きを見せると、順慶はその討伐に起用されます。

『日本大百科全書』(小学館)では、辰市(たついち)城の戦いで久秀方を大破したことが、信長に取り立てられる契機になったとしています。一方で、もともと順慶は、天正2年(1574)ころから信長に接近していたともされます。

信長と久秀の関係が悪化するにしたがって、順慶の立場は逆転していきました。かつて自分を追い落とした相手が苦境に陥り、その機をつかんで自らの勢力を回復していったのです。

このあたりに、順慶のしたたかさがよく表れています。単なる名門の御曹司ではなく、情勢を読みながら生き残る力を持っていたことがわかります。

大和一国を預けられ、郡山城へ

天正4年(1576)、順慶は信長から大和一国を預けられます。翌天正5年(1577)には、織田信忠らとともに信貴山城で松永久秀を討ち、さらに翌年には吉野郡の一向一揆も平定して、ほぼ大和一国支配を実現しました。

天正8年(1580)には、大和一国の指出が徴され、一国一城として郡山に築城が始まります。順慶はこの郡山城を本拠とし、大和国主としての地位を固めました。破城や検地も進められ、織田政権下の大名としての枠組みが整えられていきます。

ここで順慶は、長い苦闘の末にようやく大和を手に入れたことになります。だからこそ、のちにその大和を失うことへの恐れが、彼の行動に強く影を落とすことになるのです。

本能寺の変と「洞ヶ峠」の俗説

天正10年(1582)、本能寺の変が起こると、順慶は大きな選択を迫られます。明智光秀から誘いを受けたともされますが、順慶は郡山城を動きませんでした。その後、山崎の戦いのあとに羽柴秀吉へ参じます。

このため順慶は、戦いの行方を見て有利な方についた「洞ヶ峠の順慶」として語られることが多くなりました。しかし、『日本大百科全書』(小学館)や『国史大辞典』(吉川弘文館)などはいずれも、この話を後世の脚色、あるいは荒説として退けています。洞ヶ峠に陣して勝敗を見極めたというのは、史実としては確かではありません。

むしろ順慶は、大和国内の国衆の動きを見極めながら、自国を守るため郡山城に籠っていたとみる方が自然でしょう。長年かけて取り戻した大和を、軽々しく危険にさらせなかったのです。この慎重さが、後世には「日和見」と映ったのかもしれません。

秀吉のもとで大和支配を安堵される

山崎の戦いのあと、順慶は羽柴秀吉に属し、大和の支配権を安堵されました。その後は大坂築城や小牧・長久手の戦いにも参加しています。秀吉にとっても、大和を押さえる順慶の武力は重視されたのでしょう。

一方で、順慶は楽な立場ではありませんでした。大坂城参勤の宿所開設や人質徴収など、秀吉政権のもとで厳しい軍役を負わされていたことを伝えています。大和領有を認められたとはいえ、完全に安穏な支配者になれたわけではなかったのです。

教養人としての一面と、36歳での死

順慶は武将であると同時に、教養人としての側面も持っていました。教学に励み、謡曲や茶湯を好み、刀剣・能面・茶器などの遺品も多く残したとされます。「筒井筒」と呼ばれる井戸茶碗の所持でも知られます。

戦乱の只中にあっても、文化や信仰を重んじたところに、順慶の人柄がうかがえます。官符衆徒としての立場を誇り、春日社造替の段銭催徴や神事法会の振興にも尽くしたという記録からも、順慶が単なる武断の人物ではなかったことがわかります。

しかし天正12年(1584)、順慶は病に倒れ、京都で療養したものの回復せず、8月に郡山城で没しました。36歳、あまりに早い死でした。

まとめ

苦難の連続の末に大和支配を実現しながら、天正12年(1584)に36歳で早世した筒井順慶。その生涯は、戦国の荒波のなかで自国を守り抜こうとした大和武士の姿をよく伝えています。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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