歌川広重『東都名所上野東叡山全図』

上野公園(上野恩賜公園)の面積は約16万坪(約54万平方メートル)、東京ドーム11個分の広大な敷地が、上野の台地に広がる。そこには動物園、博物館、美術館などの施設が集まり、国内でも類を見ない文化ゾーンとなっている。なぜ上野公園に多くの文化施設が集まり、内外から多くの観光客が訪れる名所に発展したのか。その歴史をたどってみたい。
寛永2年(1625)、江戸幕府の信を得た天台宗の高僧、天海は、第3代将軍・家光の命により、江戸城の鬼門(北東)の方角に守護寺を創建した。寛永寺である。天海は比叡山延暦寺に倣い、寺を「東叡山」と号し、低地に広がる不忍池は琵琶湖に見立てた。
最盛期の敷地は約30万5000坪(約92万平方メートル)に及び、本堂の根本中堂、清水観音堂、五重塔などの伽藍を有し子院は36坊を数えた。やがて歴代将軍の霊廟が造営されると、徳川幕府の菩提寺も兼ねた。寛永寺は格式、規模ともに国内最大級の寺院として偉容を誇った。また、境内には多くの桜が植えられ、春になると花見の名所として庶民の憩いの場となった。
寛永寺

台東区上野桜木1-14-11
電話:03・3821・4440
開門時間:9時~17時 参拝自由
交通:JR 鶯谷駅より徒歩約7分、JR上野駅公園口より徒歩約15分
広大な境内が都市公園になる
ときは幕末。戊辰戦争(1868~69年)が勃発。官軍と戦う彰義隊(旧幕府軍)が寛永寺境内に立てこもり、官軍の放った火により伽藍の大部分が灰燼に帰してしまう。境内地は明治新政府の所有となり、広大な敷地の利用について各省の「争奪戦」が繰り広げられたという。医学施設や陸軍兵士の墓地などの構想があったが、オランダ人軍医のボードウィン博士の提案により、敷地を「公園」とすることが決まった。
明治9年(1876)に日本初の都市公園である「上野公園」が開園。翌年には「第1回内国勧業博覧会」を園内で開催する。欧米の技術と在来技術の出会いの場を押し出した博覧会は、入場者数45万を超え大成功となった。
博覧会の展示をきっかけに、上野公園に博物館などの文化施設が整っていく。明治15年(1882)に日本初の動物園が開園、同年、内山下町(千代田区内幸町)にあった博物館が上野公園に移転をし、明治22年(1889)に帝国博物館(現東京国立博物館)となる。
芸術面でも東京藝術大学の前身となる東京美術学校(明治20年)や東京音楽学校(同年)が設立され、上野公園は文化・芸術の拠点として土台を固めていく。
上野公園は名建築が集まる地としても知られる。明治から昭和初期にかけて建てられた、帝国図書館(現国際子ども図書館)や東京科学博物館(現国立科学博物館)は、今も現役で使われる。戦後は国立西洋美術館や東京文化会館などが竣工し、園内はさながら「建築博物館」の様相を呈している。


