はじめに-松本秀持とはどのような人物だったのか
松本秀持(まつもと・ひでもち)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した幕臣で、勘定奉行として幕府の経済政策に深く関与した人物です。蝦夷地開発や印旛沼・手賀沼の干拓事業などを推進した一方、田沼意次の政権における側近としても知られています。
その政策は後の日本の経済や地域開発に大きな影響を与えましたが、田沼政権の崩壊とともに失脚する運命をたどりました。
2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、身分の低い家柄の出身でしたが、田沼意次に抜擢され、勘定奉行となった人物(演:吉沢悠)として描かれます。

目次
はじめに-松本秀持とはどのような人物だったのか
松本秀持が生きた時代
松本秀持の生涯と主な出来事
まとめ
松本秀持が生きた時代
松本秀持が生きた18世紀の江戸時代中期から後期は、経済的・社会的な変革が進行した時代でした。享保の改革以来の改革期を経て、幕府は財政難に直面し、新たな経済政策や財源確保のための開発が重要視されました。
天明期には飢饉が発生し、農村や都市において庶民の不安が高まる中、幕府は経済政策を中心に立て直しを図ります。この状況下で、田沼意次政権が積極的な開発政策を進めましたが、一部は賄賂や汚職と結びつき、不満が蓄積されていきました。
秀持はまさにこの激動の時代に、幕府の経済政策の中枢に関与し、改革の最前線に立つ役割を果たしました。
松本秀持の生涯と主な出来事
松本秀持は享保15年(1730)に生まれ、寛政9年(1797)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
幼少期と初期の経歴
松本秀持は、享保15年(1730)、江戸幕府に仕える御家人の家に生まれました。父は松本忠重、母は池田氏の出身です。幼少期から幕臣としての教育を受けて育ちました。通称は十郎兵衛です。享保19年(1734)、父の跡を継ぎ、幕臣としての道を歩み始めます。
勘定所での台頭
宝暦12年(1762)、勘定所に列した秀持は、財務や行政の実務を通じて政策の経験を積みました。その後、明和3年(1766)には勘定組頭となり、安永元年(1772)には勘定吟味役に昇進し、幕府の財政運営に直接携わる立場となります。
この頃、田沼側近の奥医師・千賀道隆の子を養子に迎えています(田沼失脚後は、離縁)。
田沼意次政権下での活躍
安永8年(1779)、秀持は勝手方勘定奉行に昇進します。同年12月には伊豆守に叙任し、老中・松平武元のもとで幕府の経済政策を推進しました。
老中・田沼意次の腹心として、赤井忠晶(ただあきら)とともに田沼政権の経済政策の中心的存在となったのです。
【蝦夷地開発や印旛沼・手賀沼の干拓事業に尽力。次ページに続きます】
