吉原から日本橋へ進出
安永3年(1774)、重三郎は北尾重政(きたお・しげまさ)の絵による『一目千本花すまひ』を出版し、版元としての活動を本格化させます。天明3年(1783)には事業拡大を目指し、日本橋通油町(とおりあぶらまち)に店舗を移転。地本問屋(じほんどいや、「地本」とは江戸で出版された本のこと)となります。
これにより、重三郎の事業は広がり、江戸の文化人や芸術家たちとより密接な関係を築くようになりました。
文化人との交流と新人発掘
重三郎は大田南畝、山東京伝、曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)、十返舎一九(じっぺんしゃ・いっく)といった一流の戯作者や、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎(かつしか・ほくさい)といった浮世絵師たちとも深い交流を持ちました。
重三郎は、時代の流れを読み取る企画力に優れていました。ただ単に本を出版するだけでなく、才能ある作家や絵師を発掘し、その成長を支援したのです。ここでは、重三郎と、主な作家・浮世絵師との関係をご紹介しましょう。
作家との関係
重三郎は、多くの才能ある戯作者を支援し、江戸文化を大いに発展させました。山東京伝や曲亭馬琴は、蔦屋の支援を受けて創作活動を広げ、黄表紙や読本(よみほん)といったジャンルで高い評価を得ました。
また、十返舎一九とも深い関わりがありました。一九が執筆活動を本格化させた初期、重三郎の食客となって店の手伝いをしながら、黄表紙『心学時計草(しんがくとけいぐさ)』、『奇妙頂礼胎錫杖(きみょうちょうらいこだねのしゃくじょう)』などを蔦屋から刊行したのです。一九が作家としての地位を築く一助となりました。
浮世絵師との関係
重三郎は、浮世絵界においても革命的な役割を果たしました。特に、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった絵師を支援し、名作を世に送り出した功績は特筆に値します。
喜多川歌麿は女性美を描く美人画で知られますが、重三郎の企画力がその作品に深みと魅力を与えました。錦絵ばかりでなく、豪華な多色摺りの狂歌絵本を蔦屋から次々と発表。歌麿の秀作のほとんどは、蔦屋から版行されました。
その背景には、重三郎の助言と後援があったようです。そのことを裏付けるかのように、重三郎の死後、歌麿の作品の質は低下したともいわれています。
一方、東洲斎写楽の役者絵は、重三郎の鋭い目利きがなければ世に出ることはなかったかもしれません。写楽の役者絵・相撲絵は、すべて蔦屋が版元として刊行。写楽の大首絵(おおくびえ)は、役者の表情や性格を大胆にデフォルメし、心理描写を深く掘り下げた点で画期的でした。
【重三郎の企画力とマーケティングセンス。次ページに続きます】