モネが最晩年まで連作の主題とした『睡蓮』。移住したジヴェルニーに「水の庭」を作り、栽培に情熱を傾けた植物・スイレン。その魅力を、時代背景とともに解き明かす。
「品種改良によりさまざまな色のスイレンが登場したのが19世紀末のフランス。まさしくモネの生きた時代です」
フランス印象派の巨匠、クロード・モネが描いた『睡蓮』は、およそ300点にも上る。どうしてモネはこれほどまでスイレンを描き続けたのであろうか。
モネが、終の棲処となったフランス北西部のジヴェルニーに移住し、庭作りを始めるのが1890年以降のこと。1893年には「水の庭」を作るための土地を購入している。「水の庭」において、モネはスイレンの栽培に情熱を傾けるようになり、作品の主題となっていく。以降『睡蓮』の連作はモネの最晩年まで続くことになる。
そんなモネとスイレンの関係を、園芸的な知見から繙いてみる。解説はスイレンに詳しい園芸学者の城山豊さんにお願いした。そもそもスイレンとはどのような植物であったのか、城山さんはこう語る。
「スイレンは砂漠や極地を除き、世界に広く分布し約70種に分類されます。古代エジプトの壁画に描かれるなど、昔から人々の暮らしの近くにあった花です。水辺に咲くスイレンは、人が生活する近くで生育するので身近な花でした。ちなみに、同じ水生植物のハスと似ていますが、遺伝子的に別の分類がされています」
スイレンは生育の環境により「温帯性」(耐寒性)と「熱帯性」があり、モネが「水の庭」で育てたのは温帯性スイレンである。当時、温帯性スイレンの花の色は白が“常識”であり、1856年にスウェーデンで赤いスイレンが見つかると大変な話題になった。前後して、人の手によるスイレンの育種が盛んになってくる。
同時代を生きた育種家とモネ
「スイレンの育種家にボーリー・ラトゥール=マルリアック(1830〜1911)というフランス人がいました。マルリアックは『スイレンを手玉に取る魔術師』とも呼ばれ、色とりどりのスイレンを数多く作出し当時の人々を驚かせました。マルリアックが誕生した10年後にモネが生まれていますから、両人は同時代を生きていたことになります」(城山さん、以下同)
モネがマルリアックのスイレンに出会ったのが、1889年に開催されたパリ万博といわれる。
「マルリアックのスイレンが万博に出展されており、博覧会に出かけたモネは、新品種のスイレンに出会い驚嘆し、強く魅了されたようです」
モネの時代、ヨーロッパにあった品種
‘ダーウィン’
‘アーカンシェル’
ヒツジグサ
パリ万博とモネの庭作りの年代は重なる。マルリアックの新品種から、モネは大きな刺激を受けた。その後モネは、マルリアックからスイレンを幾度も購入し「水の庭」で育成している。マルリアックと出会ってからモネは育成に没入し、憧れた熱帯性の青いスイレンを温室で育てるほどであった。マルリアックの類稀な育種家の才能とモネの芸術的感性が共鳴し、その結果、印象派の一時代を彩ったといえる。
「もし、マルリアックがモネのずっとあとに生まれていたら『睡蓮』の連作は生まれなかったかもしれません。歴史の偶然を感じます」
マルリアック以降、数多くの育種家によって観賞用のスイレンが作出され、現在、国際スイレン・水生園芸協会には2893もの栽培品種が登録されている。
解説 城山 豊さん(咲くやこの花館館長・68歳)
フランスでモネの家を訪ねる
1890年、モネはパリの北西約70㎞のジヴェルニーに自宅とアトリエを建て、終の棲処とした。移住後、「花の庭」「水の庭」を作り、『積みわら』や『睡蓮』の連作を描いた。モネの暮らした家は当時のまま残され、アトリエ、庭を含め「クロード・モネの家と庭」により管理され一般公開されている(11月〜3月は冬期閉館。※開館期間などは変動することがある。クロード・モネの家と庭公式HP(https://claudemonetgiverny.fr/en/)参照)。鉄道を使えばパリから日帰りで行ける。パリ中心部のサン=ラザール駅から最寄りのヴェルノン・ジヴェルニー駅へは約1時間、開館期間は駅からモネの家へシャトルバスが運行。公式サイトで日時予約制のデジタル・チケットの購入がおすすめ。高知県にある『北川村「モネの庭」マルモッタン』の入園券の半券は、ジヴェルニーの入場券として使える。
※この記事は『サライ』本誌2025年1月号より転載しました。
写真/城山 豊、福田 誠、国立国会図書館 スイレン品種解説監修/宮本浩一(宮川花園)