市川寿猿(歌舞伎俳優・94歳)

─伝統芸能の世界で5世代にわたり一門を支える「現役最高齢」の名脇役─

「役のことを絶えず考えながら生きたい。自惚れて満足したら、役者は終わりです」

東京・東銀座の歌舞伎座にて、出番を前に楽屋で化粧をする。白塗りの顔に、手に持つ青い顔料を重ねて陰影を作る。この日は山本周五郎原作の歌舞伎で、幽霊役を務めた。
化粧後、衣裳と鬘(かつら)で扮装が完成。鏡の前で動きを確認する。幽霊らしさを表現するため、着物の裾は長めにして、足が生々しくみえないよう白い足袋を墨汁で染めるなどの工夫を施した。

──スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』(昭和61年初演)の上演が1000回を超えました。

「ほとんどすべての回に出演しています。この作品は師匠の三代目市川猿之助さん、つまり二代目猿翁の旦那が創作した新しい歌舞伎の第1作で、台詞は現代語です。音楽も新しい。主人公のヤマトタケルを、今は旦那の孫の市川團子さんが演じています。團子さんは実に良い芝居をされます。旦那の舞台をよく研究し、自分でもよく考えて芝居を変えている。今回、僕の役は老大臣でした。タケルを生まれた頃から見守り、孫のように慕っている。自分の命を投げうってでも助けたい。そのような人物として演じます。僕は團子さんを初舞台の頃からずっと見ています。役と気持ちが重なり、感慨深いものがありますね」

──寿猿さんの初舞台は何歳でしたか。

「3歳です。おっかさん(母)が芝居好きで、僕を女座長の一座に預けました。座長のおばあさんは子役の僕にも厳しくてね。芝居が気に入らない時は、お客さんから見えないところでつねられることもあった。芸に厳しい人でしたから、当時はよくあることでした。『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわがみ)』という芝居で、主人公が泥にまみれて水をかぶる場面があります。歌舞伎なら男役者が上半身裸でやるのですが、女座長はさらしを巻いて演じきりました。豪華な道具や衣裳はなくても、役の心は大歌舞伎と同じ。役になりきることの大切さを教わりました」

──それが初めての師匠だった。

「そうです。この一座で色々な場所へ旅巡業をしました。戦前の奉納歌舞伎は楽しかったね。秋になると僕らは、稲刈りを終えた村に呼ばれて、神社で収穫感謝の芝居をしました。その夜は農家に泊まるんです。ご馳走が出てきて“坊やの芝居を見たよ、よかったよ”と褒めてもらえるのが、本当に嬉しかった」

──次第に戦火が激しくなります。

「たとえば、戦時中は軍服姿の桃太郎が活躍する芝居をやりました。桃太郎は僕でしたよ。評判は良かったけれど、次第に食う物にも苦労するようになりましてね。昭和19年頃は、横浜の芝居小屋に出ていましたが、茶色のぱさぱさのうどんを1杯食べるために1時間以上並んだような時代。そんな時でも芝居小屋にはお客さんが来ました。芝居の途中で空襲警報が鳴ると、お客さんはみんな外へ出ます。警報が解かれると、ひとりまたひとりとみんな戻ってきます。何があってもただ演じ続けました。空襲で芝居の道具が焼けてしまった翌日も芝居はやりました」

──終戦はどちらで。

「一座で北海道にいました。8月15日は夕張炭鉱で慰問芝居の予定でしたが、日本が無条件降伏したらしいとの報せがあった。にわかには信じられませんでしたが、夜に灯りが戻り、町が夢みたいに明るくなりました。昨日まで、暗闇で誰かにぶつからないよう蛍光塗料のバッジをつけて歩いていたのに。本当に戦争が終わったんだ、と思いました。東京へ帰ってきたのは11月です。焼け野原でした」

──歌舞伎座も空襲で大部分が焼失しました。

「当時はまだ歌舞伎役者ではありませんでした。歌舞伎座の前に来たら天井が焼け落ちていて、客席に入り込んで見た青空が、“ああ、きれいだな”と思った記憶があります」

──その後、歌舞伎の世界へ。

「僕のいた一座と合同で巡業をした師匠が、澤瀉屋(おもだかや) という歌舞伎の一門の出身の方でした。人が足りなかったのでしょう。僕が弟子になる話がまとまったそうです。その後、新しい師匠が澤瀉屋一門に戻ることになり僕も一緒に入門することになります。それ以来、師匠のご兄弟、息子さん、さらにその息子さんやご兄弟、そのまた息子さん、そして団子さん。澤瀉屋で長くお世話になっています」

昭和34年、『司法卿捕縛(しおうきょうほばく)』の青年役。29歳。端正な顔立ちで、「立役でも女方でも、どんな役もやりました。猫の役では着ぐるみのままとんぼ返りもしました」と振り返る。

「いつも𠮟られてばかりだったけど、芝居が好きだから長く続いている」

──5世代にわたり一門の伝統を支えている。

「この間、本当に色々なことがありましたが、支えてくださる皆さんのおかげでここにいます。僕は歌舞伎の家に生まれた坊ちゃん方ほどは伝統を意識しません。それでも歌舞伎はすごいと思います。戦後は新国劇や新派劇なども人気があったのに、今ではあまりなくなってしまった。歌舞伎は、一度は焼け跡になったこの地で、しかも、こんな立派な建物(歌舞伎座)で毎月舞台をしています。それぞれの一門の皆さんが、代々の芸や名前を大切に継承してきたおかげだと思います」

──94歳、現役最高齢です。

「若い頃に覚えた台詞はいくらでも思い出せるのに、新しい役の台詞を覚えるのは大変です。自分の台詞を小さな紙に印刷して、スマートフォンの裏や壁に貼って覚えています。最近は耳が遠くなり、皆さんの台詞がよく聞こえないことがある。代わりに人の動きをよく見て、自分の台詞のきっかけを掴んでいます。舞台では、その役らしく見えるように動きも声も工夫をする。出番は長くありませんが、舞台の後は、体も神経もへとへとです」

楽屋では鏡台の脇の目に付く場所に特別な人の写真を飾る。左から、初代猿翁(二代目猿之
助、2年前に「星になった奥方」、本人。二代目猿翁(三代目猿之助)の写真も。

──昨年他界された、二代目猿翁さんの元で長く修業をされました。

「失敗したことばかり覚えています。今もよく思い出すのは、旦那が三役を演じ分ける踊りの時のこと。僕は後見として、旦那の息に合わせて3つのお面を素早くパパッと渡す役割でした。ある時、お面を渡した瞬間、“違う!”と言われた。咄嗟に旦那はお面に合わせて踊りを変え対応したのですが、僕は訳が分からなくなり、諦めてお面を床に並べてしまった。旦那は自分でお面を拾い上げ、取り替えて踊りました。普段は淡々と叱る方でしたが、その時ばかりは大声で怒鳴られました」

──歴代の師匠方にはよく叱られましたか。

「そりゃもう、いつも叱られてばかり。でも、旦那たちは文句の中で時折、草履の脱ぎ方や道具の渡し方など、芝居のためになることを口にします。僕はその間、“すみません”と頭を下げ、お小言が頭の上を通り過ぎるのを待ち、大事な部分だけ心に留める。そして同じ失敗を繰り返さないよう一所懸命に努力する。厳しい世界で長く続けられているのは、芝居が好きということに尽きるんだろうね。

一方、役者は互いに褒め合ったりはしません。でも、師匠から“新聞にあんたのことが出ていたよ”と言われた時は、気に掛けてくれていると分かり、嬉しかったですね。ところが昨日、十七代目中村勘三郎さんに褒められる夢を見たんです。お孫さんの勘九郎さんに伝えたら、“寿猿さん、頭、大丈夫?”と笑われましたが」

楽屋を訪れた中村勘九郎さんと。寿猿さんが「昨日、お祖父さんに褒められる夢を見ました」と興奮気味に話すと「そんなことあるわけないでしょ(笑)」と勘九郎さん。

「他の役者の舞台もよく見て研究し、星になるまで役者であり続けたい」

──舞台に登場すると大きな拍手が起きます。

「そうですか。お客さんからの掛け声や拍手は励みになりますよ。でも僕は耳が遠いので、僕の中では客席はいつも静まりかえっています。終演後、周りの役者から“すごい拍手でしたよ”と教えてもらうけれど、“大きな拍手はむしろ聞こえない方がいい”と言う役者もいます。もし聞こえたら、僕はすぐに自惚れ、きっと芝居が駄目になるからだと。今になって、よく分かります。役者は、“俺を見ろ”という気構えや自信が必要な時もあります。でも自惚れて満足したら、終わりです」

寿猿さんは2・5・6・10月に上演された『ヤマトタケル』に出演。昭和61年の初演から、家来や祈祷師 、腹黒い大臣など様々な役で出演してきた。(C)松竹

──現在は都内でひとり暮らしです。

「35歳の頃から、ずっと千葉にある団地に住んでいました。電車とバスを乗り継ぎ、片道1時間40分かけて東銀座の歌舞伎座まで、毎日ひとりで通いました。今年の春にスカイツリーが見える場所へ引っ越して、歌舞伎座も近くなりました。半世紀以上住んだ家を離れることに寂しさはなかったけど、2年前に星になった奥方を、今の家に住まわせてやりたかったな。きっとあちこちに出かけ、もっと日々を楽しんでいたでしょう」

──奥様はどんな方でしたか。

「若い頃から芝居が好きな人でした。血の繋がりはないけれど遠い親戚。彼女が福岡から東京へ芝居を見にきた時にお茶をしたのが出会い。親は新聞社の人で、役者の僕との結婚に反対した。でもある時、奥方が“借金をしてでも、実家には頼りません”と父親に啖呵を切ってきたと言うんです。僕は少し慌てたけど、ひと晩真剣に考え“君と一緒になる”と電話しました。“あっ、そう”と素っ気ない返事で、拍子抜けしちゃったけどね(笑)」

──60年以上、妻と一緒に過ごした。

「僕は地方公演も多かったから、奥方が飛行機や新幹線で巡業先まで見に来てくれるのが嬉しくてね。あの人はあまり愛想が良い方ではなかったけれど、僕といる時は顔がほころぶんです。最後の2年は認知症を患い、施設にいました。面会の時、大きな声で“僕だよ”と手を振っても反応しない日もありました。それでも隣に並ぶとニコっと笑ってくれた」

──奥様が寿猿さんの一番の贔屓だった。

「ところがね、僕の芝居はどうだったかと尋ねても“まあ、あんなもんでしょう”としか答えてくれない。役者と同じで、良いところは言わないの。僕も奥方に日頃から感謝していたけど、なかなか口に出せませんでした。亡くなった今となっては、もっと感謝の言葉を伝えておけばよかったと思うけれど」

──健康のために意識していることは。

「舞台に立つことが一番です。食事は1日3食、きちんと摂ります。外食もしますが、最近はコンビニの惣菜も美味しいですよ。胡瓜のお新香は自分で漬けます。晩飯を食べるとお腹がつっぱり、目の皮が弛んで眠たくなります。起こしてくれる人はいませんから、朝日で目が覚めるようにカーテンを少しだけ開けて寝るようにしています。起きたら台詞を確認して家を出て、開演1時間半前には楽屋に入る。とにかく舞台で失敗しないようにと考えていると、おのずと気が引き締まります」

──引退を考えることはありますか。

「ありません。舞台で倒れたら皆さんに迷惑をかけるので、そうならないようにはしたいけど。今の住まいは高齢者向けで、毎日僕が起きているかの確認があります。朝、返事がなければ星になったということでしょう。でも、芝居を続けるからには他の役者の舞台もよく見て研究し、絶えず役のことを考えながら生きたい。役をいただける限り、星になるまで役者でいて、もう少し生かしておきたかったと思われる役者になりたいね」

楽屋の暖簾。三つ澤瀉の紋と、御贔屓の名前が染め抜かれている。「二代目寿猿」は、子役時代から数えて6つ目の役者名。「初代寿猿」は、初代猿翁の弟が名乗っていた。

二代目市川寿猿(いちかわ・じゅえん)
歌舞伎俳優、主に立役(男役)。屋号は澤瀉屋(おもだかや) 。昭和5年、東京浅草生まれ。女歌舞伎の坂東勝治に入門。昭和22年、八代目市川八百蔵に入門し歌舞伎界へ。二代目市川猿之助や三代目市川猿之助に師事。昭和50年、二代目市川寿猿を襲名。旧ソ連での歌舞伎公演やスーパー歌舞伎の初演にも参加する。現役最高齢ながら、現在も年間100回近く舞台に立ち続けている。

※この記事は『サライ』本誌2024年11月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。
(取材・文・撮影/塚田史香)

 

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