家族と皇室との関係
頼宗は、娘の延子(えんし、または、のぶこ)を後朱雀天皇の女御として、また娘の昭子(しょうし、または、あきこ)を後三条天皇の女御として後宮に入れました。しかし、いずれの娘も皇子を産むことができず、外戚としての地位を強化することはできませんでした……。
異母兄で摂関となった頼通の影響力も大きかったようです。そのことは、頼宗の政治的栄達が制限された一因でもありました。
歌人としての活躍
頼宗は、歌人としても高い評価を受けていました。藤原公任に次ぐ歌才と称され、『後拾遺和歌集』以降の勅撰和歌集にその作品が収録され、その数、約40首といわれています。
家集として『入道右大臣集』を残し、その中には数多くの優れた和歌が含まれています。
出家と最期
治暦元年(1065)1月5日、頼宗は72歳で出家し、入道右大臣と称しました。その後、同年2月3日、73歳で薨去(こうきょ)しました。
出家の理由について、『古事談』には以下のような逸話が伝えられています。
頼宗は、中宮・彰子(しょうし)に仕える好色な女房を愛していたそうです。その女房を愛するのは頼宗だけでなく、藤原公任の子である定頼(さだより)もまた愛していたとか。
ある日、定頼が彼女のもとを訪れると、先客として頼宗がおり、彼女を懐抱中でした。そのとき、定頼は経文を唱えて立ち去りましたが、その声を聞いた女房は頼宗に背を向けて泣きました。これに心を動かされた頼宗は、仏道に目覚め出家したといわれています。
まとめ
藤原頼宗は、摂関家の一員として高位高官を歴任し、歌人としても卓越した才能を発揮しました。しかし、異母兄である頼通に比べると政治的な栄達は限られており、娘たちを後宮に入れたものの、皇子の誕生には至りませんでした。
その生涯は、平安時代の貴族社会における権力構造や家族関係の複雑さを映し出しているようです。その一方で、子孫は中御門・一条・持明院・白河・高倉などの諸家に分流して栄えたといわれています。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大事典』(吉川弘文館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)