はじめに―大江匡衡とはどのような人物だったのか
大江匡衡(おおえのまさひら)は、平安時代中期の漢詩人・歌人・漢文学者です。漢文学者の大江維時(これとき)の孫であり、官吏・大江重光(しげみつ)の子として生まれました。彼は学者として高い評価を受け、当時の詩人や学者の中でも傑出した存在でした。
歌人としても活躍し、『後拾遺和歌集』以降の勅撰和歌集に和歌が収録されています。さらに、妻は有名な女流歌人である赤染衛門(あかぞめえもん)。彼女の作品や活動にも影響を与えたと考えられている大江匡衡ですが、実際にはどのような人物だったのでしょう。史実をベースに紐解きます。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、赤染衛門の夫で、和漢の才に秀でている学者(演:谷口賢志)として描かれます。
目次
はじめに-大江匡衡はどのような人物だったのか
大江匡衡が生きた時代
大江匡衡の足跡と主な出来事
まとめ
大江匡衡が生きた時代
大江匡衡が生きた平安時代中期は、貴族文化が花開き、漢詩や和歌、物語文学が盛んに創作された時代です。
政治の世界では、藤原道長が絶大な権力を握っていましたが、その一方で、学問や文化においては漢文学が重要視され、多くの学者や詩人が活躍していました。
大江匡衡の生涯と主な出来事
大江匡衡は、天暦6年(952)に生まれ、長和元年(1012)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
誕生と家系
天暦6年(952)もしくは天暦7年(953)に生まれた大江匡衡は、学問の家系に生まれました。祖父は有名な学者・大江維時、父は大江重光で、幼少期から学問に親しむことのできる環境にありました。
若年期と学問への専念
24歳で文章生(もんじょうしょう/大学寮で文章道を専攻した学生のこと)となり、その後30年にわたり読書と学問に励みました。しかし、官位の昇進は遅く、自身の不遇を嘆く詩を多く残しています。彼の才能は早くから知られていましたが、実際の官職や地位はなかなか上がりませんでした。
文章博士と東宮学士への任命
永祚元年(989)、文章博士に任じられ、寛弘6年(1009)に再任されました。長徳3年(997)には東宮学士となり、翌年には一条天皇の侍読に。また、皇子の敦康(あつやす)親王にも侍読として仕えています。
彼は皇子たちの名前である敦成(あつひら)親王と敦良(あつなが)親王の名を選定し、長保・寛弘の年号勘進にも携わりました。
【詩人・学者としての活躍。次ページに続きます】