詩人・学者としての活躍
大江匡衡は、詩人・学者として多くの詩宴に参加し、序文や題を作成しました。藤原道長、藤原行成、藤原公任(きんとう)などのために文章を代作することもあり、その才能は「名儒(めいじゅ/優れた学者のこと)比肩するものなし」と称されたそうです。
新年号の勘進や『孔子世家(こうしせいか)』についての「江家(ごうけ)の説」を奉るなど、学者としての業績も多岐にわたります。
尾張守としての善政
長保3年(1001)、尾張権守に任じられ、善政を行って治績を上げました。寛弘6年(1009)には再び尾張守に任じられ、地方行政にも尽力しました。郷貢のために学校院を興し、教育にも力を注いだといわれています。
家族と晩年
大江匡衡は、著名な女流歌人である赤染衛門を妻とし、彼女の『栄花物語』の執筆にも影響を与えたと考えられています。
晩年には正四位下式部大輔にまで昇進し、三度尾張守を務めました。しかし、自身は貧しく、風采も冴えなかったと伝えられています。
最期と作品
長和元年(1012)7月16日、61歳で没しました。彼の詩集『江吏部集(ごうりほうしゅう)』や和歌集『大江匡衡朝臣(あそん)集』が現存しており、『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』『後拾遺和歌集』以降の勅撰集にも作品が収録されています。
作品には自身の不遇を嘆くものが多く、語彙は必ずしも豊富ではないものの、構成が巧みであると評価されています。
まとめ
大江匡衡は、平安時代中期を代表する漢詩人・歌人・学者として、その才能を遺憾なく発揮しました。彼の作品は当時の文化や思想を理解する上で重要な資料となっています。また、妻である赤染衛門との関わりから、平安文学の発展にも寄与したと考えられます。
学者としての誇りと自負心を持ちながらも、不遇を嘆く姿は人間味があるともいえるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大事典』(吉川弘文館)