権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)は、藤原公任(きんとう)の子で、和歌に秀で中古三十六歌仙にも選ばれています。また、書や管弦も得意とした公任譲りの風流な貴公子でした。正二位権中納言まで昇進し、恋愛関係も華やかで、『小倉百人一首』58番・大弐三位(だいにのさんみ)や、65番・相模(さがみ)など女流歌人との恋のエピソードが残されています。
また、60番・小式部内侍(こしきぶのないし)の歌について、「母・和泉式部の代作ではないか」とからかった話は有名です。
目次
権中納言定頼の百人一首「朝ぼらけ~」の全文と現代語訳
権中納言定頼が詠んだ有名な和歌は?
中納言定頼、ゆかりの地
最後に
権中納言定頼の百人一首「朝ぼらけ~」の全文と現代語訳
宇治川の美しい風景を詠んだ叙景歌が、
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木
『小倉百人一首』64番に収録されています。現代語訳は、「夜がしらじらと明けてくる頃、宇治川に立ち込めた川霧がとぎれとぎれに晴れていき、その霧の間から次第に見えてくる浅瀬の網代木よ」。
「朝ぼらけ」は、「あたりがほのぼのと明るくなってくる」明け方の情景。秋または冬に用いられる語です。「たえだえに」は「とぎれとぎれに」。この歌の場合は、川霧が切れ切れに薄れていき、晴れてくる様子を描写しています。
「瀬々(せぜ)」は浅瀬で、「網代木(あじろぎ)」は網代を立てる杭のこと。網代とは、冬に氷魚(ひお、鮎の稚魚のこと)をとるためのしかけで、竹や木を編んで作られていました。浅瀬に網代木が立ち並んでいる様子は、宇治川の冬の風物詩でした。
この和歌が誕生した背景
『千載和歌集』の詞書に、「宇治にまかり侍りける時よめる」とあります。歌の描写から季節は冬、「侍る(はべる)」は、仕えるという意味ですので、定頼が位の高い人のお供をした時の歌なのでしょう。
風光明媚な宇治は古来、貴族の別荘地でした。網代は宇治川の冬の風物詩で、右大将道綱母の『蜻蛉(かげろう)日記』や、菅原孝標女(たかすえのむすめ)の『更級(さらしな)日記』などにも登場します。また「宇治の川霧」は、源氏物語の『宇治十帖』で、「入りもてゆくままに、霧ふたがりて」 などと描写されたこともあり、和歌に多く詠まれるようになりました。
この一首を鑑賞すると、朝目覚めて川霧が徐々に切れていく様子、そして少しずつ網代木が見えてくる様子が、現代の私たちにも、目に浮かぶようですね。
権中納言定頼が詠んだ有名な和歌は?
権中納言定頼の有名な和歌を、その歌にまつわる逸話とともに紹介しましょう。
1:見ぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなむ後の なぐさめぞなき
「会えないあなたを思って梅を見続けてきました。花が散ったあとには何の慰めもありません」
『新古今和歌集』より。紫式部の娘で恋人であった大弐三位に送った歌です。大弐三位の返しは、
「春ごとに 心を占むる 花の枝に 誰(た)がなほざりの 袖かふれつる」
「春が来るたびに心惹かれていたあの梅の枝に、誰が気まぐれに袖をお触れになり移り香を残したのでしょうか」と皮肉まじりに定頼に会わない理由を詠んでいます。
2:水もなく 見えこそわたれ 大井川 きしの紅葉は 雨とふれども
「大井川は、見渡す限り川面が紅葉に覆われて水がないように見える。岸の紅葉は雨のように降っているのに」
『後拾遺和歌集』より。『西行上人談抄』によると、一条天皇の嵐山の大井川行幸に同行した公任・定頼父子。公任は、自分の歌より定頼の歌の出来を心配していました。定頼が「水もなく」と上の句を詠むと、公任は失敗したかと顔色をなくしましたが、下の句を聞いて「これは秀歌だ」と笑みを浮かべたといいます。父と子のいい関係が伝わってきますね。
ちなみに大井川は、今では大堰川(おおいがわ)と書きます。
3:八重むぐら しげれる宿に つれづれと とふ人もなき ながめをぞする
「幾重にもむぐらが繁っている荒れた家で、気が紛れることはなく、訪れる人もない。長雨をただぼんやりと眺めています」
『風雅和歌集』の詞書に、「雨のいとのどかにふるに、大納言公任につかはしける」とあるように、父・公任に贈った和歌。父子で歌のやりとりをしていたことがわかります。むぐらとは、つる性の雑草の総称です。
権中納言定頼、ゆかりの地
歌に詠まれた宇治川と大井川(大堰川)は、平安時代から今日まで、京都を代表する名勝地として広く知られています。
1:宇治川
「宇治川」は、京都府宇治市から京都盆地へ流れ出す河川のこと。特に宇治では、山間を流れ、その渓谷美は有名で、川の周囲には藤原道長の別邸(のちの平等院)など、多くの貴族の別荘が営まれました。寒い時季の早朝、谷間を覆うように発生する川霧は、今も宇治川の風物詩のひとつです。夏には、平安時代に起源を持つ鵜飼も行なわれます。
2:嵐山
京都を代表する景勝地で、今なお、和歌に詠まれたような紅葉の名所としても知られています。ことに大堰川あたりは、貴族の舟遊びが盛んに行われた遊覧の地でした。
最後に
『栄花物語』には、「みめ、容貌(かたち)、心ばせ、身の才(ざえ)いかでかありけん」との藤原公任の言葉があり 、親孝行で自慢の息子であったことがわかります。
一方で、恋人に贈るはずの歌をすでに別れていた女性へ届け、「忘られぬ 下の心や しるべにて 君が宿には ふみたがへけむ」(あなたを忘れられない秘めた思いが手びきをしたのでしょうか、あなたの家に踏み違えてしまいました<文を間違えて届けてしまいました>)と言い訳したり、軽率な言動により後一条天皇から勘当を受けるなど、失敗談も多い定頼。和歌からも、どこか憎めない、愛すべき風流人としての定頼像が浮かんできますね。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●協力/嵯峨嵐山文華館
百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp