明治の世になり、日本を訪れるようになった西洋人たちは夏に暑い東京を離れ、冷涼な地へ避暑を求めた。旅籠は近代的なホテルへ大きく変化し、現在へと繋がる観光の在り方となった。

【日光】英国で刊行された旅行案内書で絶賛

アーネスト・サトウ(1843-1929)

アーネスト・サトウは1862年、英国駐日公使館の通訳生として横浜に着任。のちに「佐道愛之助」という日本名を使い始める。書道を学び、日本の図書を収集し、海外向けの旅行案内書も著した。

栃木県の日光は明治になると徳川家ゆかりの聖地ゆえ、神仏分離もあって衰微した。そんな日光を最初に訪れた西洋人は、英国公使のパークス夫妻で1870年のこと。以来、在京の西洋人や西洋からの旅人に知られる地となった。

こうした西洋人たちの日光への関心をさらに促したのが、英国の外交官であったアーネスト・サトウだ。サトウは1871年より日本各地を巡り、8月に箱根、熱海、江ノ島を旅行すると、英国の新聞に寄稿。翌年には富士登山を遂行。日光へは富士登山の後に訪れ、「東照宮よりも中禅寺に行くべし」と説いた。その後もサトウは30回以上も日光を訪れ、1875年に英文の観光ガイドブック『日光案内』を上梓している。

「英国大使館別荘記念公園」から望む中禅寺湖。サトウはここからの眺めを「絵に描いたような風景」と絶賛した。

夏は外務省が日光に移る

その2年前に日光金谷ホテルの前身が、金谷善一郎の手により創業。宿泊場所がなく困っていた西洋人に自宅を貸したのが発端だ。その西洋人とは医師のヘボン博士のことで、博士はこの親切な日本人に「今後の日光には外国人が多く訪れるから、外国人向けの宿を始めよ」と勧めた。その言葉通り、日光は西洋人に愛された。金谷ホテルの宿帳には紀行作家のイザベラ・バード、フランク・ロイド・ライトらの名が残る。

大正期、客の送迎や観光に利用するため、2代目の金谷眞一は自動車を導入。写真は外国人客と1920年代のT型フォード。

サトウをはじめ、中禅寺湖の近くには外交官や大使館など西洋人の別荘が多く建った。夏には要人がそこで過ごし、“外務省が日光に移る”と称されたほど、日光は国際的な避暑地となった。彼らを魅了したのは湖畔の景勝と気候である。明治初期にイワナやニジマスなどが放たれると、英国人はフライフィッシングを楽しみ、地元民も興じた。中禅寺湖はフライフィッシングの聖地として、今に至る。

ホテルのレストランでは、大正中期から戦前まで使われていた東洋陶器(現TOTO)のカップとソーサーが、今も活躍している。
1893年のメニュー。キャビアの前菜、ビーフステーキなど豪華な品が記される。
往時の西洋人が食したであろうステーキは「150周年ディナー」(2万4000円)コースの一品(とちぎ和牛“匠(たくみ)”フィレ肉のポワレ アスパラガスのビネグレットにフレッシュマッシュルームを添えて)。2日前までに要予約。

箱根と日光の深い関係――正造さんと眞一さん

金谷善一郎の長男、眞一(右)は金谷ホテルの2代目社長となり、弟の正造は箱根の富士屋ホテルへ婿養子に入りホテルを発展させた。正造は1931年に「万国髭倶楽部」を発足。10か国43名の髭自慢らが親交を深めた。

日光金谷ホテル

栃木県日光市上鉢石町1300
電話:0288・54・0001 
チェックイン15時、同アウト11時
料金:3万1000円〜(1泊2食付きで1室2名の1名料金)
交通:東武日光線東武日光駅、JR日光駅からバスで約5分、神橋バス停下車徒歩約3分

取材・文・撮影/山﨑真由子 写真提供/金谷ホテル株式会社

※この記事は『サライ』本誌2024年7月号より転載しました。

『サライ』2024年7月号の特集は「外国人が愛したニッポン」

 

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