ライターI(以下I):藤原宣孝(演・佐々木蔵之介)が筑前守兼大宰少弐の任期を終えて、京へ戻ってきました。佐々木蔵之介さんは、2020年の『麒麟がくる』では秀吉を演じています……。
編集者A(以下A):羽柴筑前守秀吉ですね。佐々木蔵之介さんは、時空を超えて筑前守を演じたことになります。もっとも秀吉の筑前守は朝廷に任じされたものでもありませんし、すでに実態はない官職ですからね。かといって現代の「名ばかり管理職」とも異なります。
I:お土産の唐の酒が為時(演・岸谷五朗)には合わなかったようです。まひろ(演・吉高由里子)も口にして「カッといたします。まさに戦の前に己を鼓舞する酒でございます」と言います。いったいどんなお酒なのでしょう。
A:宋の時代に著された『北山酒経』『酒譜』などの書物にそのヒントがありそうですので調べてみたいです。中国でもっとも飲まれている白酒系のお酒なのか、紹興酒に代表されるような黄酒なのか、はたまたもっと違う酒なのか……。
I:日本酒でも現代の清酒と当時のお酒はまったく異なりますからね。想像するだけで楽しいですね。
A:さて、まひろは宣孝の土産である唐物の紅をさしましたが、中国は907年に唐が滅亡して、五代十国の混乱を経て、宋が統一を果たしてからまだ10数年しかたっていません。まひろはそのあたりも押さえていて、大陸に新たにできた統一王朝の動向に興味を持ったのでしょう。しきりに宋の国のことを知りたがりました。
I:為時に、「行きたいなどと申すなよ」とくぎを刺されていたのがおかしかったです。
まずは道兼が関白に
I:さて、関白藤原道隆(演・井浦新)が亡くなって、後継をどうするかが、貴族社会のもっぱらの課題になってきました。道隆嫡男の伊周(演・三浦翔平)か道隆の弟道兼(演・玉置玲央)かいずれかになるということです。
A:前週も触れましたが、道隆が病に倒れた際に、「道隆が病気の間のみ内覧に任ず」という宣旨を受けました。これとて20代前半の伊周には異例の待遇です。
I:ですから定石では伊周の線はなく、道隆次弟の道兼が継承するのは妥当といえば妥当なんですよね。
A:はい。ここでは道兼に関白の座が与えられました。道兼の35歳でも関白にはまだ若いのですが……。
I:劇中でも疫病で多くの公卿が亡くなったことが説明されましたが、大変な事態だったんですね。
あっという間に亡くなった道兼
I:せっかく関白の位についた道兼ですが、なんと疫病のためにあっという間に亡くなってしまいます。
A:俗に「七日関白」。後年の明智光秀の「三日天下」と並ぶ「短命天下」となりました。この疫病では、公卿の半数が斃れ、前代未聞の事態になりました。『光る君へ』の時代考証を担当されている倉本一宏先生の『藤原伊周・隆家:禍福は糾へる纏のごとし』(ミネルヴァ日本評伝選)などを参照して道隆・道兼時代の公卿名簿を作ってみました。
I:公卿からも死者が続出して、関白、左大臣、右大臣、大納言が空位になるという事態になったんですね。『栄花物語』にも描かれていますが、5月8日には道兼と源重信、源保光と1日で3名も亡くなっています。国家の危機ともいえる状況ですね。このとき伊周は内大臣、道長(演・柄本佑)は権大納言。官職では伊周が上位ですが、一条天皇(演・塩野瑛久)との関係では伊周が従兄弟、道長は叔父甥の関係になります。
A:中宮定子(演・高畑充希)を寵愛する一条天皇の意向は「関白伊周」。ところが、一条天皇の母で史上初めて女院号を与えられた東三条院詮子(演・吉田羊)は道長推しでした。
I:劇中では、一条帝の寝所まで自ら赴いて蔵人頭の源俊賢(演・本田大輔)とのやりとりを経て、一条帝と母詮子が直接対峙します。
A:この場面の原典は、歴史書『大鏡』かと思われます。ちょっと長いので『新編 日本古典文学全集』(小学館)の訳文のみ引用します。「女院はこの入道殿(※道長のこと)を特別に目をおかけになり、たいそうお愛し申し上げられたので、帥殿(伊周)は、この女院に対してはよそよそしい態度をお取りになっていらっしゃいました」とあります。
I:『大鏡』のこのくだりは名場面かと思うのですが、劇中でもほぼ忠実にトレースしている印象でした。
A:「夜の御殿(おとど)に入らせたまひて、泣く泣く申させたまふ(自ら天皇のご寝所にお入りになって、泣く泣く関白のことをお説きふせなさいます)」という胸熱な場面があるのですが、この場面を演じてもらうために吉田羊さんをキャスティングしたのかと思ったほどでした。
I:「どうか、どうか」と懇請する詮子の姿に胸を締め付けられました。確かに伊周が権力を握れば、女院といえども詮子の立場は悪くなるのは必定ですし。『大鏡』では、詮子の道長推しの進言に困った一条帝が、詮子を避け始めたので、強硬手段で寝所に乗り込んだということのようですね。
A:女院様は「母を捨てて后をとるのですか?」と激しく帝を問い詰めていました。母と妻の板挟みになっているわけです。まるで『渡る世間は鬼ばかり』の世界です。
I:嫁と姑ということではそうですがが、詮子と定子は伯母・姪の関係なんですけどね。
A:人事に対して国母(天皇の母)の意向が反映されるのは、詮子の叔母で村上天皇の中宮だった藤原安子に前例があるという話が同じ『大鏡』にあります。国母の影響は大きかったのだと思いますし、詮子は女院、ありていにいうと「女帝」同然の立場ですから、その意向は無視できない状況だったのでしょう。
I:詮子に女院号を与えるべく動いたのは道隆ですから、なんとも皮肉な流れになってしまいました。帝は詮子に抵抗しますが、結局、母の意向に従う形になりました。母は強しですね。
【道長30歳で執政就任。次ページに続きます】