戦争でシングルマザーに。戦後、判事を目指す
しかし、嘉子は戦争に翻弄されます。昭和18年(1943)、武藤家の書生だった和田芳夫(わだ・よしお)と結婚。翌年には長男・芳武(よしたけ)が生まれましたが、芳夫は召集されてしまいます。嘉子は子どもを連れて福島県へ疎開。残念なことに芳夫は中国で発病して長崎の陸軍病院で戦病死し、嘉子は死に目に会えませんでした。さらに弟も戦死、戦後、両親も相次いで亡くしています。嘉子はシングルマザーとして、また残された家族を養うため、女性の経済的自立について改めて真剣に考えるようなったようです。
昭和22年(1947)、司法省(現・法務省)に、裁判官として採用してほしいという「裁判官採用願い」を提出。戦前に裁判官と検事は「帝国男子に限る」と定められていましたが、男女平等が宣言されたからには女性も採用されるべきと考えての行動でした。
嘉子はすぐには裁判官にはなれませんでしたが、司法省や最高裁の職員になって、民法、家事審判法、親族法、相続法など、男女の平等を盛り込んだ戦後の司法の整備に携わり、家庭裁判所の設立にも関わりました。
【原爆裁判で「原爆投下は国際法違反」と明言。次ページに続きます】