史上最年少の摂政として藤氏長者に
長和5年(1016)、結局、道長の圧力に屈した三条天皇が譲位し、道長の娘・彰子(しょうし/あきこ)の産んだ後一条天皇が即位。道長は摂政となりますが翌年にはこれを辞して、頼通が後を継ぎました。頼通、このとき26歳。史上最年少の摂政であり、全藤原氏の筆頭である藤氏長者(とうしのちょうじゃ)となります。さらに、寛仁3年(1019)には関白となり、治安元年(1021)に左大臣に転じました。
道長はすでに出家していましたが政治の実権は握り、頼通は公卿の前で罵倒されたり、治安3年(1023)・万寿2年(1035)の2度、政務上の不始末を叱責されて一時勘当処分も受けたと伝えられています。
頼通は道長に倣い、外戚となる道を探りますが、いかんせん隆姫との間に子はいません。そこで、隆姫の姪・嫄子(げんし/もとこ)を養女として、後朱雀天皇(後一条天皇の弟)の中宮にします。しかし、内親王を産んで若くして死去。次の後冷泉天皇には、側室の子・寛子(かんし/ひろこ)を入内させますが、やはり内親王を授かりつつもついに皇子には恵まれず。次代には、ついに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位しました。
壮麗なる平等院鳳凰堂を造営
頼通が関白となった年、賊(女真族といわれています)が北九州を襲撃する「刀根の入寇(といのにゅうこう)」が発生します。これを鎮圧したのは道長の甥・隆家(たかいえ)でした。万寿4年(1027)、道長が死去。その翌年には、関東で国司の圧政に反発した「平忠常(たいらのただつね)の乱」、永承6年(1051)には陸奥国で安倍氏の朝廷への反乱「前九年の役(ぜんくねんのえき)」が勃発します。
平忠常の乱を鎮圧したのは源頼信(よりのぶ)、前九年の役は源頼義(よりよし)で、東国において源氏が台頭。武士が表舞台に登場するきっかけとなりました。
一方、このような内乱が続いても頼通の権勢は衰えず、永承7年(1052)、道長の別荘であった宇治殿を寺とし、壮麗なる平等院鳳凰堂に改修。仏法が衰えて世が乱れるという末法(まっぽう)思想の広がる不穏な時代に、この世に極楽浄土を作り上げました。康平4年(1061)、70歳を目前に頼通は朝廷の最高職・太政大臣になりますが1年でこれを辞し、治暦3年(1067)には関白も辞して、弟・教通(のりみち)が関白に任じられました。
翌年、後三条 (ごさんじょう) 天皇が即位すると、宇治に隠遁。後三条天皇は有名な「延喜(えんぎ)の荘園整理令」を実施し、藤原氏の荘園まで例外なく整理していますが、頼通の荘園の中核であった平等院領には手が付けられませんでした。それほどに頼通の権威は大きかったのです。
延久4年(1072)に出家、蓮華覚 (れんげかく)、のちに寂覚 (じゃくかく) と名乗り、2年後に死去。鎌倉時代後期の『百錬抄(ひゃくれんしょう)』2月2日条に「宇治前太政大臣薨八十二御宇治」と記されています。
まとめ
藤原頼通は父・道長の敷いたレールの上を走り、栄華を極め、その権威は宇治殿(うじどの)と呼ばれた晩年まで衰えることはありませんでした。しかしながら、目指していた外戚になれなかったことで、宮中における藤原氏の存在感は陰りを見せ始めます。さらに、後三条天皇から白河(しらかわ)天皇へ、藤原氏を外戚としない天皇が続けて即位。摂関政治から院政へ、また内乱による武家の台頭など、時代は大きく変わっていきました。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
イラスト/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考文/
『国史大辞典』(吉川弘文館)