定子への純愛は最後まで!?
行成の日記『権記(ごんき)』には、天皇は定子が生んだ敦康親王を、次期東宮に望んでいましたが、行成が道長の意向を尊重し、敦成親王を東宮にするよう進言したと記されています。
また天皇の辞世の句、「露の身の 風の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき」について、「成仏し切れない定子を置いて、自分だけが成仏するのは悲しい」と解釈。当時、妊娠・出産にまつわる死は、成仏できないとの考えもあったようですが、行成には一条天皇の定子への思いが伝わっていたのかもしれません。
道長の『御堂関白記(みどうかんぱくき)』では、最後の「事ぞ悲しき」が「ことをこそ思へ」となっており、彰子を置いていくことの心残りと解釈されています。
断然、ネコ派の一条天皇
一条天皇は大の猫好きで、飼い猫の名を「命婦の御許(みょうぶのおとど/みょうぶのおもと)といいました。「命婦」は、従五位下以上の位階を有する女性、「御許」は高貴な女性の敬称です。清少納言の『枕草子』第七段には「馬の命婦を乳母とする」とあり、愛猫に乳母まで付けていたことがわかっています。
まとめ
一条天皇在位期間、藤原道長が実権を掌握し、藤原氏同士の権力争いは落ち着きをみせていました。一条天皇はうまく道長と結び、自ら政策を立案するなど、才気ある帝として、現代でも高い評価を得ています。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
引用/参考文
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)