ふたりの皇后、定子と彰子
ところで、定子は「中宮」と号しています。実は中宮とは、皇后・皇太后・太皇太后の相称です。この頃、三代前の帝の后、天皇の生母・詮子、円融天皇の后・遵子(じゅんし/のぶこ)が太皇太后、皇太后、皇后の地位にいたため、道隆はあえて定子を中宮としたのでした。
定子に遅れること、9年後、長保元年(999)、道長の娘・彰子が入内。翌年、道長の意図で定子がいるにもかかわらず彰子も中宮となり、史上初の「一帝二皇后」となりました。一条天皇は定子を寵愛していました。しかし、定子の兄の伊周と弟の隆家が先の「長徳の変」を起こすと、定子は懐妊していたものの剃髪。
その後、長徳2年(997)、第一子・脩子(しゅうし)内親王を出産します。翌年、恩赦により伊周らが京へ戻ると、一条天皇は再び定子を宮中へ迎え入れました。長保元年(999)には、第一皇子・敦康(あつやす)親王が誕生、続いて媄子(びし)内親王が誕生しますが、このときの難産で、定子は命を落としてしまいます。長保2年(1001)12月、24歳でした。
彰子はのちに、後一条天皇となる敦成(あつひら)親王、後朱雀(ごすざく)天皇となる敦良(あつなが)親王を産みます。
道長と協調し天皇親政を目指す
彰子が1人皇后となり、権力は道長に集中。けれど一条天皇は、道長を内覧そして左大臣にとどめ、関白職は与えませんでした(のちに関白)。これには、摂政・関白は閣議に出られない決まりであり、道長がそれを望まなかったこと、そして一条天皇自身も天皇親政を志していたことが考えられています。
実際、一条天皇は、賄賂の禁止令、贅沢禁止令などを自ら立案。後年には、大江匡房(おおえのまさふさ)が著作『続本朝往生伝(ぞくほんちょうおうじょうでん)』の中で、藤原実資(さねすけ)や藤原行成(ゆきなり)等の有能な人材を輩出したことを称えています。特に、三蹟(さんせき)として知られる行成は、秘書の役割を担う蔵人(くろうど)として天皇と道長の間を取り持ちました。
寛弘8年(1011)に入り、一条天皇は体の不調を訴え、6月に没しました。
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