花山天皇を出家へと追い込む

上級貴族として、順調に出世していた道兼。その頃、兄・兼通が亡くなったことで氏長者となった兼家は、自身の娘・詮子(せんし)と円融(えんゆう)天皇の間に生まれた皇子を擁立しようと考えていました。当時の貴族社会では、夫婦の間に生まれた子どもは、母方の親族によって養育されるのが通例でした。

そのため、皇子を天皇として擁立することで、兼家は外祖父として権勢を振るうことができたのです。皇子を擁立させるには、当時の天皇・花山天皇を退ける必要がありました。兼家は、自ら花山天皇に譲位を勧めた後、彼を退位させるよう、道兼に命じたそうです。

父の命令に従った道兼は、花山天皇に接近し「一緒に出家しよう」という話を持ち掛けることに。道兼の提案を受け入れた花山天皇は、譲位した後、出家の準備を始めました。道兼に連れられ、元慶寺(現在の京都市山科区にある寺)に移った花山天皇。

しかし、一緒に出家するという道兼の話は、すべて嘘だったのです。道兼に騙された花山天皇は、剃髪を迫られます。道兼は、そのまま宮廷へと引き返したそうです。父の言いつけ通り、花山天皇を退位へと追い込んだ道兼。正暦5年(994)には、右大臣へと昇進することとなりました。

道隆亡き後、関白に就任する

右大臣へと昇進し、権力を有するようになった道兼。そんな彼に転機が訪れます。兼家の跡を継いで、関白に就任していた兄・道隆が病没したのです。道隆は、深酒による糖尿病が原因で亡くなったとされています。

生前、道隆は嫡男・伊周(これちか)を関白職に就けるようにと言い残していましたが、実現しませんでした。関白には伊周ではなく、道兼が選ばれたのです。氏長者として、政界の頂点に君臨することができた道兼。しかし、その後間もなく、病に倒れてしまいます。

そして、長徳元年(995)、35年の生涯に幕を閉じることとなりました。関白就任後、わずか7日で亡くなったため、道兼は「七日関白」という不名誉な呼び名をつけられてしまったのです。

貴族の家

まとめ

父・兼家の命令通り、花山天皇を退位させ、藤原氏の繁栄に貢献した藤原道兼。天皇を騙したということもあり、悪役というイメージが強い人物でもありますが、父に認めてもらうため、仕方なく行なったのかもしれません。

上級貴族として、恵まれた生活をしていたとされる道兼ですが、彼にしか分からない悩みを抱えながら懸命に生きていたのではないでしょうか?

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)

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