山崎 貴(映画監督)
─ゴジラ70周年記念の映画を指揮─
「この世にないものをVFXで創り出す。ゴジラの迫力を映画で“体感”してほしい」
──公開中の映画『ゴジラ-1.0(マイナスワン)』で監督や脚本を務めています。
「元々、ゴジラファンであることを明言していましたので、5年前にお話をいただいた時は、本当ならガッツポーズすべきところなのでしょうけど、正直申しますと、引き受けるべきか迷いました(笑)」
──どのような迷いがあったのでしょう。
「監督した『ALWAYS 続・三丁目の夕日』という映画でゴジラを登場させた時の経験からです。出来には満足していますが、ほんの数分のシーンなのに身も心もへとへとになりました。今度は数分どころでは済みませんから、生半可な覚悟ではできません。
話をいただいた時、ちょうど『アルキメデスの大戦』という戦艦大和の映画を撮り終えたところでした。海でのシーンが多く、それを視覚的にどうリアルに表現するかが課題だったのですが、この作品の成功で手応えを得ることができました。
ここで駆使したVFXの独自技術を応用すれば、ゴジラの見せ場となる海からの登場シーンも、期待にたがわない大迫力の映像にできるのではないかと」
──VFXについて教えてください。
「VFXとは、視覚効果を意味するビジュアル・エフェクツ(visual effects)の略で、ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』や『タイタニック』がVFXを使った映画として有名です。簡単にいえば、CG(コンピュータ・グラフィックス)や特撮、合成技術を駆使し、この世にないものを創り出すことです。うまくいくと、映像の世界観が広がり、映画の説得力が増します。最近のヒット映画の多くはVFXの技術が鍵となっています」
──ゴジラもこの世に存在しないものです。
「ですからVFXが生きるんです。VFXでゴジラに命が吹き込まれます」
──今回の映画は、ゴジラ70周年、30作目という記念作になりました。
「数字の神秘性ってありますよね。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』では、日本アカデミー賞最優秀作品賞など数々の賞をいただきましたが、宣伝キャンペーンで泊まったホテルの部屋は333号室、タクシーに乗るとナンバーは333、日本アカデミー賞の授賞式が始まったのは、3月3日午後3時……と『3』尽くしでした。おまけに興行収入は33億円。今回のゴジラも30作目でしたが、コロナ禍もあり、いろいろ延びてしまった。そうこうするうちに、ゴジラ70周年の節目を迎えるタイミングで公開する運びとなりました。偶然ですが、数字が重なり驚いています。“いいこと”が起こりそうな予感がします(笑)」
──コロナ禍の影響があったのですね。
「いいように捉えれば、公開予定日が延びた分だけ、脚本を練る時間が増えました。脚本だけで3年、29稿までいきました。
もうひとつは、物語の描き方です。コロナ禍が露わにしたことは、いざという時に政府は右往左往するばかりで当てにならない、ということです。これは、今回の物語にも反映されていて、登場人物のひとりに、“誰かが貧乏くじ引かなきゃなんねんだよ”と言わせています。舞台は、太平洋戦争が終わったばかりで無に帰した首都なのですが、日本を無(ゼロ)から負(マイナス)に突き落とすようなゴジラ襲来の危機に、政府ではなく、民間が立ち上がります」
──戦争の延長戦のようです。
「私たちは、戦争の話を直接聞いた最後の世代です。初代ゴジラ(昭和29年公開)も、原爆や戦争の悲惨さを背負った映画です。ここに立ち返って、戦争とは何か、ということもきちんと描きたかった」
──主演を神木隆之介さん、ヒロインを浜辺美波さんが演じています。
「NHK朝の連続テレビ小説『らんまん』と同じコンビですよね(笑)。『ゴジラ-1.0』のほうが早く動き出していたのですが、コロナ禍で延期になったせいで、朝ドラに公開は先を越されました。この配役は二番煎じじゃなくて、ゴジラが先ですから(笑)」
「原点は中学時代に経験した高揚感。監督ではなく、映像制作を志した」
──30作目だからこその難しさもあった?
「前作はあの『シン・ゴジラ』(平成28年公開)です。現代日本を舞台に、東日本大震災の体験をうまく生かしました。作品として非常に良くできていて、公開時にコメントを求められた時は“次のゴジラ映画のハードルがとんでもなくあがりました”と答えています(笑)。前作が現代日本を描いたこともあり、今作は原点に戻り、戦後を舞台にしました」
──作中のゴジラはいつも以上の迫力です。
「実は今回、意図的に人とゴジラの距離を近づけて描きました。映画館で観た方にゴジラを“体感”してもらいたかったんです。ゴジラを遠くから観るのではなく、その迫力を“体感”してほしい。先ほど、VFXはこの世にないものを創り出すと言いましたが、その答えがここにあります」
──映画の世界に興味を持ったきっかけは。
「中学生の頃、映画『スター・ウォーズ』(ジョージ・ルーカス監督、後に『エピソード4/新たなる希望』と改題)やスティーヴン・スピルバーグ監督の『未知との遭遇』が日本で公開され、衝撃を受けました。昭和53年のことです。今まで見たこともなかった世界が目の前に現れ、“これだ!”と思ったんです。文字通り、人生を変えた映画ですね」
──いずれも当時の最先端を行く映画でした。
「まだVFXという言葉は伝わってきていませんでしたが、映画監督を夢見るのではなく、“こういう映像を作りたい”と強く思うようになったんです。初代ゴジラもそうですが、当時は本編の監督と特撮の監督が分かれていて、僕がやりたいのは断然、特撮のほうでした。中学の卒業文集にも“特撮監督になりたい”と書いたほどでしたから」
──監督ではなく、映像の制作を志したと。
「映像の仕事に興味を持ち、中学3年の時に初めて映画を撮りました。とはいえ、当時は今のようにスマートフォンだけで簡単に映像を撮ることはできません。それでも人づてに、8mmカメラを持っているおじさんを見つけましてね。“僕たち、映画を撮りたいんで機材を貸してもらえますか?”と頼み込んだら、快く貸してくれたんです。
ところが映像を記録するフィルムがまた高かった……」
──フィルム代はどうしたんですか?
「スーパーマーケットの月一の棚卸しのアルバイトに友人と潜り込んで、フィルム代を稼ぎました。1回3000円くらいだったと思いますが、みんなでこれを繰り返して資金を貯めました」
──どんな映画を撮影したのですか。
「人間が住める地球外惑星を探す探検隊がいるのですが、彼らが宇宙にいる間に、地球が核戦争で破壊されてしまう。つまり、宇宙船の乗組員が最後の人類になってしまうんです。しかし彼らは、新しい星を見つけて着陸し、そして……という話です。当時、僕が住んでいた松本市には、美ヶ原高原という異世界に見える場所があったので、そこに宇宙船のプラモデルを持ち込んで撮影しました。CGも合成もできない時代なのでいろいろ苦労しましたが、夢中になりました」
──創意工夫を凝らした撮影ですね。
「文化祭で視聴覚室を借りて上映したのですが、会場がたくさんの人で大賑わいだったことを覚えています。どんなに大変なことがあっても映画を撮り続けているのは、この時の高揚感が大きい。僕の原点ですね」
──高校卒業後に上京しました。
「美術の専門学校に進み、本格的に映像技術を学びました。卒業後、今の会社に入るのですが、すでに特撮を映画で使う時代は終わっていました。特撮を使った映像も撮っていましたが、宇宙船も宇宙人も出てこない(笑)。入社当初は、VFXを駆使して、映像の季節を夏から冬に変えるなどしていました」
「SFではなく歴史物を撮ることでVFXの可能性がぐんと広がった」
──尊敬する映画監督はいますか。
「映画『マルサの女2』や『大病人』など伊丹十三監督の作品には多く関わりました。伊丹監督は雲の上のような存在で、こっちは20代の駆け出し。それでも伊丹監督は、同じ仕事をする仲間として分け隔てなく接してくれました。ただし、仕事の出来に対しては、納得するまでウンとは言わない厳しさがあります。伊丹監督からいろいろ学ばせてもらいましたが、とはいえ、飛行機が雲の中を飛んでいる映像とか、電車の車窓に映像を当てはめるとか、本質的に自分のやりたいVFXの仕事ではありませんでした。
じゃあ、自分の好きな映像を撮るにはどうしたらいいかと考えた時、自分で企画を通して、自分で監督するしかないと気づいた。それで妖怪をテーマにした映画『鵺(ぬえ)』を企画したところ、あっさり通ってしまったんです」
──映画監督の道が開けたわけですね。
「ところが企画は通ったものの、制作費が20億円規模にまで膨らんでしまって、新人監督に出してもらえる額じゃない(笑)。代わりに実現可能な規模の企画として出したのが『ジュブナイル』というSF映画で、これがデビュー作になります。36歳の時です」
──山崎監督といえば、『ALWAYS 三丁目の夕日』の印象が強い。
「監督としては3作目の作品ですね。前々からオファーされていたのですが、実は撮りたくなくて、ずっと逃げていたんです(笑)」
──どうしてですか?
「ずっとSFに親しんできたので、昭和の世界を撮るイメージが全然湧かなかった。でも、ずっとお世話になっていたプロデューサーの阿部秀司さんから、“お前にとっての『タイタニック』を作れ!”と背を押されまして」
──詳しく教えてください。
「『タイタニック』はキャメロン監督の作品ですが、彼もVFX畑の出身なんです。この映画で、SFではなく歴史物を撮り、全世界で大ヒットを記録しました。つまり、自分の土俵じゃないところで勝負し、成功した。
『ALWAYS 三丁目の夕日』はフィクションですが、昭和33年の下町が舞台。昭和のリアルな街並みや東京タワーが徐々にできていくシーンなど、VFXを駆使して再現する必要があったのです。実際にやってみると、自分の中でVFXの可能性がぐんと広がりました。自分の土俵に持ってくることができて、過去にも未来にも行ける、という確信を得たんです。映画館をタイムマシンにして、お客さんをどんな時代にも連れて行くことができるという大きな発見がありました。
また、余談ですが、スタッフから“これなら田舎の親にもチケットを贈ってあげられる”という声もあがりました。SF映画だと、なかなか高齢の親には理解してもらえなかったことが多かったそうで、いろいろな意味で僕にとって大切な作品となりました」
──今後はどのような展望を?
「まだ何も具体的なことは言えませんが、きっと、やるなと言われるまで映画を撮っていると思います。世間的にはそろそろ定年後を考える時期なんでしょうけど、まだまだやりたいことが山積みです。中学の文化祭の視聴覚室で味わった祝祭感を、映画館でお客さんと一緒に、ずっと味わいたいですね」
山崎 貴(やまざき・たかし)
昭和39年、長野県松本市生まれ。松本県ケ丘(あがたがおか)高校を卒業後、阿佐ヶ谷美術専門学校で学ぶ。平成12年映画『ジュブナイル』で監督デビュー。CGなどを駆使した映像表現・VFXの第一人者。平成17年『ALWAYS三丁目の夕日』で第29回日本アカデミー賞最優秀作品賞・監督賞など12部門を受賞。他作品に『永遠の0』『STAND BY ME ドラえもん』など。
※この記事は『サライ』本誌2023年12月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)