兼通に報復されるも、出世への道を模索する
華々しい出世街道を歩むも、兄によって妨害されてしまった兼家。貞元2年(977)には、兼通によって治部卿(じぶきょう、外交・葬儀などを担当する治部省の長官)に左遷されるも、兼通の死後、右大臣へと返り咲きます。
目の上の瘤とも言えるライバル・兼通が亡くなったことで、兼家の出世を邪魔する者はいなくなりました。さらなる高みを目指した兼家は、自身の娘・詮子(せんし)と円融天皇との間に生まれた皇子を擁立させようと画策することとなったのです。
一条天皇を擁立、外祖父として実権を握る
娘の子・懐仁(やすひと)親王を次期天皇にするべく、兼家は時の天皇・花山(かざん)天皇に接近します。寛和2年(986)、兼家は巧みな話術で天皇に譲位を勧め、出家させることに成功したのです。花山天皇が出家したことで、懐仁親王が一条天皇として即位することとなりました。
当時の貴族社会では、夫婦の間に生まれた子どもは、母方の親族によって養育されるのが通例でした。そのため、一条天皇を擁立することができた兼家は、外祖父として待望の摂政(せっしょう、幼い君主に変わって、政務を担当する者)になることができたのです。
また、この時代において、摂政や関白などの役職は、大臣の兼職であることが一般的でした。しかし、一条天皇即位の際、兼家は右大臣を辞職し、摂政として単独で実権を握ったのです。これ以降、摂政は独立した強い権威を有することとなります。
摂政として、実質的な支配者となることができた兼家。永祚元年(989)に太政大臣となり、翌年には関白に就任しました。その後、病気が原因で関白職を息子・道隆(みちたか)に譲り、出家することとなります。出家後も華やかな生活を続けたとされる兼家は、62歳で人生の幕を閉じることとなったのです。
まとめ
兄との熾烈な権力争いに打ち勝ち、念願かなって氏長者になることができた藤原兼家。出世のためなら手段を選ばないという貪欲さは、息子の道隆や道長にも受け継がれていると言えるでしょう。後に藤原氏が最盛期を迎えることができたのも、兼家の功績によるものが大きかったのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)